4種類に分けられる参謀タイプ

服部は、その主な活動時期を「参謀」として過ごした。そして、その結果はことごとく失敗に終わっているといってよい。戦争のみならず、およそ組織としてなんらかの決断をする際、最終的な責任がリーダー(指揮官)にあるのはいうまでもないだろう。では、補佐役である参謀にはなんの責任もないのか。

それはあり得ない。服部は主体的に意見をもち、それを主張してゆくタイプだった。といっても、決して自らが目立って突出するのではなく、共に参謀本部にいた辻政信や田中新一のような猪突猛進型の人物と組み、どちらかといえば2番手に控えていた。

参謀といっても、さまざまなタイプがいる。戦史作家の児島襄は参謀のタイプを①書記官型(指揮官の意思伝達などに終始し、自分の意見をもたない)、②分身型(指揮官の分身となって、自らも考える)、③独立型(指揮官の立場を反映しつつ、自らも独自の人格として考える)、④準指揮官(時に指揮官としての役割も果たす)などに分けている。

現実の参謀がこのようにすっきりと類型化できるわけではないが、服部をあえて分類するのであれば、③であろうか。服部は決して上司を無視して独断するようなことはないが、かといって完全に指揮官と思考が一致するわけではない。

うまくいったときのやり方を変えられない

服部本人は表面それほどトゲトゲしくは見えず、どちらかといえば社交的で人に好かれるタイプだったようだ。それでも、彼は骨の髄から積極論者だった。服部、辻政信両者を知る高山信武は2人を評して「先制主導の権化」と呼ぶ。

服部卓四郎陸軍大佐
服部卓四郎陸軍大佐(写真=アメリカ国防総省/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

高山いわく、両者は米英の準備が整っていない段階での「機先を制して南進への発動を強調」し、戦争初期はそれで大きな成功を収めた。その発想はガダルカナルの戦い以降も変わらず、守勢になって機会を求めては先制主導を取ろうとし、「時として無謀と思われる程」先手をとることにこだわった。〈高山信武『服部卓四郎と辻政信』による〉

そして、戦争後期においてはほとんどが失敗した。順調な時は何をやっても成功するが、逆境に晒されても考え方を改めず、順調な時の思考や行動を変えることができなかった。

先の林三郎の指摘通り、積極論は人気を集めやすい。そういった意味で、服部は常に多数派に属し、その人柄からリーダーとはいかずとも、2番手3番手の位置で動いた。実務集団である中堅の参謀たちが団結すれば、よほど信念と能力のある上司でなければこれを退けるのは難しいだろう。そのように上司を動かしても、責任は降りかかってこないのだ。

このような人間が敗北してなおしっかりとした追及がなされず、ましてや新生国防軍(のちに警察予備隊として組織化された)の幕僚長になろうというのは、批判されて当然だろう。自身の責任の重さを自覚していなかったというほかない。