なぜ日本は太平洋戦争に敗れたのか。歴史研究家の岩井秀一郎さんは「象徴的だったのはガダルカナル島での大敗だ。兵力差は圧倒的で、補給路も断たれているのに、陸軍参謀本部は撤退を考えず、島の奪還にこだわり続けた。その結果、大量の戦死者を出し、戦いの形勢は一気にアメリカに傾いた」という――。(第2回)

※本稿は、岩井秀一郎『服部卓四郎と昭和陸軍』(PHP新書)の一部を再編集したものです。

ガダルカナル島の戦いでマタニカウ川周辺に進軍するアメリカ海軍
写真=GRANGER/時事通信フォト
ガダルカナル島の戦いでマタニカウ川周辺に進軍するアメリカ海軍

太平洋戦争の転換点「ガダルカナル戦」のきっかけ

ミッドウェー海戦(1942年6月4~7日)の結果、日本は主力空母4隻と、300機以上の航空機、そして3500の人員を失った。米軍の損害が空母1隻、人員に至っては10分の1ほどであることを考えれば、大敗といっていいだろう。

多少のつまずきはありながらも、これまで連戦連勝を誇ってきた(日本海軍の)連合艦隊にとっては、初めて大きな「ストップ」をかけられた形になる。

そしてミッドウェーに続いてさらに大きな転換点が訪れることになる。服部卓四郎自身も大きく関与するその出来事によって、(日本)陸軍もそれまでの勢いを失うことになった。

舞台となった場所は、日本から約6000キロを隔てた南洋の孤島、ガダルカナル島である。この島に海軍の設営隊が上陸したのは、ミッドウェー海戦からほどない1942年6月16日のことだった。設営隊はここに航空基地を作り上げ、9月から使用が開始される予定だった。

ところが、飛行場がほとんどでき上がった8月7日、突如として艦砲から打ち出された砲弾が設営隊に降り注ぎ、続いて飛行場の東側に米軍の第1、第5海兵連隊などが上陸を開始したのである。〈児島譲『太平洋戦争 上』による〉

米軍に奪われたガダルカナル島を奪回するため、まず投入されたのは歩兵第28連隊長一木いちき清直きよなお大佐率いる一木支隊(約2000人)であった。

死闘を強いられた一木支隊、そして川口支隊

8月18日にタイボ岬に上陸した一木支隊は、21日に米海兵隊に夜襲を敢行した。しかし支隊の攻撃は敵の火力の前に撃退され、すでに進出していた敵航空機の攻撃にもさらされた挙句、全滅に近い損害を被った。一木支隊長は、軍旗を奉焼した後自決する。

一木清直大佐
一木清直大佐(写真=Major John L. Zimmerman/The Guadalcanal Campaign/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

参謀本部には一木支隊壊滅の詳しい状況がわかっていなかったものの、23日、一木支隊との連絡が途絶したために支隊の第2梯団及び川口清健少将率いる川口支隊(歩兵第124連隊基幹)を、早急にガダルカナル島(以下、「ガ島」と略す場合もある)へと投入することになった。

しかし、28日に行われた支隊の輸送は敵航空部隊の空襲を受け、駆逐艦1隻が沈没、部隊の一部が海没するという悲劇に見舞われ、輸送を諦めて引き返さざるを得なかった。それでも30日に行われた輸送では川口支隊長と人員約1200名をタイボ岬に上陸させることに成功し、9月7日までに増援の輸送も完了した。〈『戦史叢書 南太平洋陸軍作戦〈1〉』による〉

川口は約4000名を率いてタイボ岬に、別働隊を率いた岡朋之助少佐は550名でガ島西端のエスペランス岬に上陸した。〈前掲『太平洋戦争 上』による〉

だが川口支隊の攻撃も結局は失敗に終わる。9月13日から行われた支隊による飛行場への夜襲は苛烈なもので、一時米軍をかなり追い詰めるところまでいった。だがあと一歩のところで息が続かず撃退され、退却せざるを得なかった。以後、川口支隊独力で攻撃を再開することはできなくなる。

ここまできて、参謀本部の危機感はようやく高まってきた。この地域を担当する第17軍は第2師団の増派を決定し、参謀本部からも第38師団を派遣することになった。さらに第17軍(百武晴吉中将)には数名の参謀が参謀本部より派遣され、その中には辻政信中佐や杉田一次中佐も入っていた。

10月7日には第2師団(丸山政男中将)、10月9日には百武軍司令官自らも戦場へと赴いた。彼らは準備を整え、10月24日、夜襲によって飛行場を取り返そうとした。24日に行われた攻撃はやはり米軍の火力に阻まれ、26日には中止の命令が下された。