送り火は常に戦争に翻弄されてきた

いずれにせよ、お盆に京都に戻ってきたご先祖さまの精霊を、天を焦がす炎とともにあの世に送り届ける、京都市民にとってのアイデンティティともいえる儀式だ。京都では、送り火の見えるマンション価格は高めに設定されているほどだ。

撮影=鵜飼秀徳
2020年8月16日、『鳥居型』は2つの点だけが灯された

送り火は常に戦争に翻弄されてきた。ある意味、時世のバロメーターともいえる。遡れば、日清戦争終結直後には2度、「特殊な」送り火が点火されていた。

下関講和条約が調印された後の1895(明治28)年5月15日、明治天皇の入洛にあわせて「大文字」を灯す東山の如意ヶ嶽に「祝平和」の3文字が点火された。

直後の17日付『京都日出新聞(現在の京都新聞)』には、このような記事が掲載されている。

「丸太町、荒神口、二條、三條其他の各橋上及び御苑内等には市民群衆し、いづれも手をひたいにして歓賞かんしょうし帝國萬歳の聲湧こえわくが如くなりしぞめでたき」(試訳:丸太町通や荒神口、二条通、三条通などに架かる橋の上や、京都御所に市民が集まり、送り火を鑑賞した。それは、「日本帝国万歳」の大合唱が鳴り響くようなめでたさであった)

送り火は、山肌に固定の火床が置かれ、そこで松明や割木を焚くことで文字を浮かび上がらせる。「祝平和」などという本来、仏教にまったく関係のないスローガンを点火させること自体がナンセンスであり、いかに地元市民や仏教会が戦勝に酔っていたかがうかがえる。今となっては、仏教行事が戦意高揚に利用されたことの異常さを思い知らされる。

撮影=鵜飼秀徳
コロナ禍前の2018年の送り火『鳥居型』

京都日出新聞の記事などを見ると、当時の送り火は、「い」「竹の先に鈴」を含めた「七山」で構成されていたようだ。その年の8月16日には、通常の七山で送り火の文字が灯されている。太平洋戦争後の送り火は「五山」に減って、現在に至る。戦争さえなければ、こんにちの送り火は「七山」のままであったはずだ。ちなみに送り火が1年に2度、点火された例では、2000(平成12)年の大晦日に「ミレニアム送り火」と題して、灯されていた。