疑いを解こうとしたはずが、逆に激怒される

源平合戦で、頼朝以上に活躍したというべき範頼だが、その最期は悲劇的であった。

冒頭に書いた「曾我兄弟の仇討ち」の騒動後、建久4年(1193)8月、謀反の疑いがかけられた範頼は、その疑いを解こうと起請文(誓約書)を書いて頼朝に提出している。

範頼はその中で「頼朝の代官として何度も戦場に赴いたこと」「謀反心を持っていないこと」「頼朝様の子孫の代になっても忠義を尽くすこと」を力説している。

しかし、頼朝は、範頼が起請文に「源範頼」と署名していることを「自惚れ」として怒る。範頼は源義朝の子なのだから「源」と署名しても何の問題もないはず。それを「自惚れ」と追及するのは、言いがかり以外の何物でもない。範頼は頼朝の怒りに狼狽したという(8月2日)。

8月10日、範頼の家来の当麻太郎が、頼朝の寝所の床下に潜んでいたとして捕縛される。

当麻は「主君・範頼が、起請文の1件以来、思い悩んでいた。そこで、頼朝様の本心を伺いたいと思って、床下に潜んでいたのです」と主張。陰謀などたくらんでいないとした。

頼朝が範頼を殺した本当の理由

範頼は当麻の行動を知らなかったようだ。それから1週間後、範頼は伊豆に流罪となる。当麻は薩摩に配流となった。

伊豆に配流となった範頼のその後は不明な点も多いが、一説によると殺されたともいう。頼朝の範頼処罰は強引なように思うが、頼朝としては、義経や範頼ら異母弟を粛清し、わが子・源頼家への政権移譲がスムーズにいくように計らったのだろうか。

そうであるならば、源平合戦で功績を立てた範頼も、義経と同じく、悲劇の武将としてもっと惜しまれて良いであろう。

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