泣き言を言う範頼に頼朝が送ったアドバイス
その甲斐あってというべきか、範頼は元暦元年(1184)8月、平家方討伐のため、九州に派遣されることになる。出陣に際して、頼朝は範頼に、とても大切にしていた馬を贈ったようなので、範頼に対する期待の大きさが分かる。多くの関東の武士が範頼につき従うことになるが、その中には、「鎌倉殿の13人」の主人公・北条義時もいた。
ちなみに範頼(軍)は西国下向の際、室・高砂(兵庫県)にとどまり、遊女と戯れていたと記す書物『源平闘諍録』(平家物語の異本、南北朝時代初期には成立か)もあり、こうした記述が範頼愚将論に影響を与えたと思われるが、創作・偽りの可能性も高い。
西国・九州方面に出陣した範頼軍だが、その年の11月ごろには、兵糧が足りなくなり、味方同士の士気も低下、いさかいが起こっていたようである。
範頼が使者でもって、頼朝に伝えたところによると、味方の武士の大半が故郷・関東に帰りたがっているありさまであったという。これを、範頼の統率力のなさと見る人もいるかもしれない。
しかし、見方を変えれば、食糧問題を度外視して、範頼軍を進発させた頼朝の責任と言えないこともない。全てを範頼の責任に帰すのは酷であろう。範頼の泣き言に対し、頼朝は「自信をもって、落ち着いて行動せよ」「九州の人々に憎まれないように行動せよ」というアドバイスをしている。
頼朝の返事を受け取った範頼が、どのような感想を漏らしたかは分からないが(言うのは簡単! 実際はなかなか難しいものなのだ)と心中思ったかもしれない。
あまり知られていない九州での活躍
元暦2年(1185)正月12日、範頼軍は、下関に到着。船も食糧もない散々な状態であったが、豊後国(大分県)の豪族・緒方氏の援助を受けて、船と食糧を調達、豊後に渡ることができた。
九州に渡った範頼軍は、平家方の原田種直などを討つ。当時、平家は長門国の彦島(下関市)を拠点にしていた。範頼軍の九州進出は、平家の退路を断つものであり、平家滅亡に大きな影響を与えたと推測される(もし、範頼軍がいなければ、平家は壇ノ浦合戦で敗れても、九州に向けてさらに逃げることができたろう)。
困難な状況から、ここまでの態勢に持っていった範頼の手腕はなかなかのものと評価できよう。範頼の頼朝への手紙を見ると、敵の攻撃に苦しむというよりは、味方(関東武士)の士気の低さとわがままに、範頼は苦しめられているように感じる。
和田義盛や工藤祐経などは、勝手に関東に帰ろうとまでした。それを、宥めて九州に渡海させたのは、範頼であった。
そのことを見ただけでも、範頼には統率力もあったし、荒くれ者の関東武士を抑えるだけの度胸もあったと見て良いだろう。1185年3月、平家は壇ノ浦で滅亡する。義経の活躍ばかりが注目されているが、範頼の努力と功績にも、もっと注意を払うべきだ。