範頼が歴史書に初登場したシーン
さて、源範頼であるが、源義朝の六男として生を受ける(五男という説もあり)。
母は遠江国(今の静岡県)の遊女だったと伝わる。頼朝の母は、熱田神宮の大宮司・藤原季範の娘であるし、義経の母は常盤御前であるので、範頼は頼朝や義経とは母を同じくしていない。範頼は、頼朝の異母弟、義経の異母兄に当たる。
さて範頼は、遠江国の蒲御厨で育ったことから、「蒲冠者」や「蒲殿」と呼称された。そんな範頼が歴史の表舞台に姿を現すのが、寿永2年(1183)2月のこと。鎌倉時代後期に編纂された歴史書『吾妻鏡』に、範頼の名が見えるのだ。
どのような所で、範頼が登場するのかというと、常陸国(茨城県)の志田(源)義広という武将が、下野国(栃木県)の足利氏と一緒になって、鎌倉の源頼朝を攻めようとした時のことである。
志田義広は、下野国の有力豪族・小山朝政にも味方するよう依頼するのだが、小山朝政は味方する振りをして急に志田の軍勢を急襲。結果、志田義広は敗れることになるが、その時、小山に加勢した者の中に、範頼の名があるのだ。
この頃には範頼は頼朝の幕下にあったと考えられる(頼朝が挙兵したのは、1180年8月)。しかし、この時の範頼がどのような立場で、どのような活躍をしたのかは不明である。
頼朝のライバル木曽義仲を退治するも
範頼は、寿永3年(1184)には、木曽義仲討伐の大将となり、頼朝の代理として上洛。弟の義経と協力して、義仲を討つ。
その後、すぐに平家討伐戦に移り、同年2月には、一ノ谷の合戦で、これまた義経と共に平家軍を破っている。これらの戦いにおいて、範頼が大きなミスをしたという話は伝わっていない。
ただ、敵と交戦する以前のところで、うかつなことをしてしまい、頼朝に怒られることになる。では、範頼は何をしたのか。それは、木曽義仲を討つために上洛する途上、尾張国の墨俣において、範頼が他の武士と先陣を争い喧嘩・乱闘してしまったのだ。
頼朝はそのことを聞き「朝敵・平家と戦う以前に、味方同士で争うとは、けしからん」と怒ったとのこと。これが1184年の2月1日のことだ。頼朝の怒りを買った範頼は謹慎させられた。謹慎解除になったのが、同じ年の3月6日なので、約1カ月の謹慎だった。
範頼というと、これまでどこか控え目で押しの弱い人物のように描かれてきた(例えば人形劇「平家物語」)ように思うが、『吾妻鏡』が記す範頼は、それとは逆である。
押しが弱いどころか、武士と先陣を争うほど、イケイケだったのだ。しかし、範頼は普通の武士ではなく、頼朝の異母弟であり、木曽討伐戦においては、頼朝の代理として遣わされている立場。そうした立場を考えると、確かに範頼の行動は、軽率であり、頼朝に怒られても仕方のないものだったろう。
ちなみに、謹慎を解いてもらうために、範頼は頼朝に何度も何度も詫びていたようだ。そうしたこともあり、やっと謹慎を解いてもらったのである。