自分の意志で決めているという錯覚

【斎藤】そういえば、アメリカでもいまだにトランプは人気があるんですよね。

【堤】ありますね。トランプはテレビのショーホストだっただけに、大衆感情をよく理解しています。こうやって、完全に分断されてしまった今のアメリカは、真ん中というものを許せなくなってしまった。

今の私たちにとっても他人事じゃありません。実は中道が存在しないショー政治ほど、大衆をコントロールしやすいものはないからです。

人間は感情の生き物です。目的が利益でも権力でも、ここにデジタル技術が悪用されれば、あたかも民主主義や言論の自由が存在し、自分の意思で決めていると錯覚させたまま、いつの間にか選択肢を奪うこともできてしまうでしょう。だからこそ今のうちに、歯止めをかけねばなりません。

撮影=増田岳二

【堤】冒頭で私は、デジタルは新自由主義を加速すると言いましたが、スマホで個人化され、感情で分断され、政治から中道が消滅し、報道や言論の多様性が失われつつあるこの社会に歯止めをかけて民主主義を機能させる一つの鍵は、「公共」という概念だと思っています。

斎藤さんの『人新世の「資本論」』(集英社新書)で私が素晴らしいと思ったのは、社会の共有財産である<コモン>に光を当てていることでした。

意見の違いを調整するのは面倒くさい

【斎藤】ありがとうございます。まさに言おうと思ってたんですけど、<コモン>に限らず、何か民主的に管理をしようとしたときには、そこに当然いろいろ人たちがいるのは当たり前です。自分と意見が違い、対立する場合に調整していくっていうのは、民主主義にとっては必須のプロセスだけど、面倒くさいという気持ちもわかります。

例えば、田舎とかの共同体が面倒くさくて、都会がいいと感じるのは、貨幣の匿名性の下で生きていけるということが便利だからです。

一方で、コロナ禍でも浮かび上がってきたように、都会の生活は一瞬で孤立とか孤独に転嫁してしまう。非常に脆弱ぜいじゃくな社会なわけです。

もう一つ問題なのは、都会の生活に慣れてしまうと、日常の民主主義を取り戻そうにも、どうやっていいかわからないんですよね。そこに、GAFAMがつけ込んでくる。もっと技術が進歩すれば、シェアリングエコノミーとか、仮想現実とかでそのような孤立も乗り越えられるという話をもちかけてくるわけです。これまでのGAFAMのやり方をみれば、そんな保証はどこにもないわけですけど、みんな便利なテック未来社会に惹かれてしまう。そうやって社会は加速していくわけです。

【堤】ええ、よくわかります。斎藤さんがいう「日常の民主主義」とは、自分とは違う他者と同じ空間をシェアしたり、そこで異なる意見のすり合わせをしてゆく経験のことですね。

それが民主主義にとって本当になくてはならない大事な要素だということを、子供たちにちゃんと伝えて、そういう空間が効率の名の下に減らされないように、私たち大人が守らなければなりません。そもそもデジタル化で効率化されスピードがどんどん速くなる今の社会では、斎藤さんのおっしゃった、民主主義の面倒くさいプロセスや、簡単に答えが出ないことをとことん考えるための貴重な時間も余裕も失われる一方ですからね。