鉄炮はいつ日本に伝わったのか

それでは、鉄炮はヨーロッパからいかに伝わったか。まずは鉄炮伝来に関する研究の新たな潮流を紹介する。

明治時代以来の通説は、天文十二(一五四三)年に種子島へのポルトガル人漂着によって南蛮銃が伝来したとする「鉄炮記」(後述)にもとづくものだった。それに対して、鉄炮遺品や関係史料の分析によって、種子島への伝来は一事例に過ぎず、それ以前に、倭寇がマラッカなど東南アジアで使用されていた火縄銃を伝えたとする、宇田川武久氏の説が脚光を浴びた。

これに加えて、倭寇わこうすなわち寧波ニンポー(浙江省東部にあった勘合貿易の港湾都市)沖の舟山しゅうざん群島を拠点にした中国人密貿易商人のなかでも代表的な存在であった王直おおちょく五峰ごほう)が、自らのジャンク船(中国製の木造帆船)を使って天文十一年にポルトガル人を種子島に導いて鉄炮が伝来したとする、村井章介氏の説もある。

これらの説からは、倭寇が介在した琉球や環日本海諸地域などへの鉄炮の多様な伝来のありかたが想起されるであろう。歴史的な出会いとみられてきた種子島への鉄炮伝来も、ワンオブゼムだった可能性が高まったのである。ここでは、初期の受容が海賊の拠点であった瀬戸内海でみられることを指摘しておきたい。

通説よりも早く浸透していた可能性

京都東福寺の僧侶が記した旅行記「梅霖守龍周防下向日記ばいりんしゅりゅうすおうげこうにっき」の天文十九年九月十九日条によると、同日の午刻(十二時頃)、備前日比島(岡山県玉野市)の付近を航行していた梅霖守龍一行の乗った船に海賊船が近づき、両船の間で交渉がおこなわれたが不調に終わり、戦いが始まったという。

海賊が矢を射たのに対して、鉄炮で応戦したので、海賊側は多くの負傷者を出したことを記している。

弓(最大射程三八〇メートル)に対して、格段に射程の長い鉄炮(最大射程五〇〇メートル)をはじめとする火器は、陸戦以上に海戦に有効な武器だったことを、この記事は物語っている。

それにしても、この事例は天文年間(一五三二~一五五五年)に早くも西国社会で鉄炮が浸透していたことを暗示するものである。

鉄炮を支えた「科学者たち」

鉄炮の国産化については、きわめて短時間で可能になったようだ。これについては製造地ごとに様々な背景があったと予想されるが、種子島と国友村に伝わる一般的な理解を示しておきたい。

天文十二年(一五四三年。現在では天文十一年に修正されている)八月に、王直に従ったポルトガル人が乗船したジャンク船が種子島に漂着した。島主の種子島時尭ときたかは、彼らをもてなしたが、その折に彼らが携えた火縄銃の試射をみてその威力に感心した。