この違和感はZ世代だけのものなのか
手紙文の報道に対するもう一つの疑問点は、問題の報道が亡くなった男性乗客と恋人の女性との写真や動画などと一緒に報道されていたことである。たとえ女性の顔にボカシを入れているケースでも、報道にあたって女性の側の親族の了承は取ったのかどうかも分からないという指摘もあった。視聴者の側からすればデリケートな話題だと感じるトピックだからこそ、そうした承諾の有無も気になる点だろう。そのあたりをやはり丁寧に説明すべきだったのではないか。
亡くなった男性乗客も22歳、まだ見つからないという恋人の女性も同じくらいの年齢だろう。まさに学生たちと同世代だからこそ、当人の気持ちになって考えると、「これは絶対に報道すべき内容だとは言えない」「手紙は報道すべきではなかったのでは」と考える人が少なくないのだろう。
学生たちの反応を見ていると、必ずしも「Z世代」だけの問題だと言えない面があるのではないかと気づかされる。ある学生からは「世代に関係がないのではないか?」という意見が届いた。
「伝える意義がある」だけでは若い世代に伝わらない
回答してくれた学生は報道機関にこれから入社しようとしている人も、記者として入社が内定した人も複数いる。そうした人たちでさえ現状に違和感を示している。
実は最近、テレビや新聞の「報道」の現場の人たちに聞いても、従来は当然のように考えていた「報道の理屈」について若い世代から拒否感を示されるケースが多くなっているという。実名報道や被害者遺族への取材でこうした反応があるという。もちろんケース・バイ・ケースと言えるが、「どうしてそれを報道する必要があるのですか?」と若い世代から疑問を投げかけられて、職場で議論することは報道の現場にとっては大事なことだと考える。
伝える側も変わらなければならない時代に入ってきている。これまで報道機関は法律的に「正しいか」「問題がないか」「訴えられても大丈夫か」ということばかりを考えてきた。だがそれだけでは、視聴者との間に意識の乖離が生まれるばかりだ。視聴者から見て「違和感があるかどうか」という視点をもっと入れていけば、より共感される報道を探していけるはずだ。
SNS全盛の時代になって、これまでは当然と思われてきた「報道の理屈」が通用せず、それが正しいと強弁することがかえって強い反発を浴びるようになっている。「伝える意義がある」というだけでは若い世代を説得できない現実もある。
若い世代ほど、死者についても個々人のプライバシーへの想像力が豊かで敏感だ。死者に対してもリスペクトがある扱いになっているのかどうか。彼らは敏感な感受性で注目している。法律論の観点で「正しい」報道なのかどうかだけでなく、死者に対する敬愛や追慕の念やデリカシーを持った報道になっているのか。その都度考えて議論し合う報道現場に変わっていってほしい。そうなれば今以上に「デリカシー」のある報道に生まれ変わっていくはずだ。