戦争で荒廃した郷里とは「桁外れの豊かさ」

新崎さんは、ある夕方、友人と時計店に行った時のことを次のように記憶している。時計店の入り口に近づくとガラスの扉が開いた。驚愕していると、傍にいた友人の一人が「中の誰かがボタンを押したのだろう」と言う。

「いや、音がすると開くんだよ」と別の友人は言う。

忍び足でドアの前に立つと、スーッと扉が開く。新崎さんたちに、店主は誇らしげに、「光の作用で開閉するのだ」ということを教えた(『エッセイズ ゴールデンゲイト』)。

沖縄からの留学生にとって、アメリカの生活は「桁外れの豊かさ」(1961年留学)であった。シャワー、水洗トイレ、飲料の自動販売機、電話やテレビ、25セントを入れると自動で洗濯ができる電動洗濯機。留学生の多くにとって初めて見るものばかりだった。

豊かになった沖縄は「想像もつかなかった」

アメリカで見た豊かな生活を語る時、「米留組」は当時の貧しい沖縄の生活との比較で語った。例えば、ジョージア・ティーチャーズ・カレッジに入学した比嘉正範さん(1950年留学)は次のように振り返った。

山里絹子『「米留組」と沖縄 米軍統治下のアメリカ留学』(集英社新書)

「大学の寮でも、学生はフルコースの食事を3食たらふく食べ、毎日自由に風呂に入り、冬は暖房のきいた部屋で本を読み、夜は真っ白いシーツにくるまって寝る生活をしていた。車をもっている学生もかなりいて、どこまでもつづく舗装道路をドライブに連れて行ってもらった時などは、アメリカとは富める国であるとつくづく思った。あの時代には、沖縄の生活が今日のように豊かになろうとは想像もつかなかった」(同前)

ミルズ大学でのオリエンテーションが終わる頃には、留学生たちはアメリカでの生活に徐々に慣れていった。

1カ月前、沖縄戦の傷跡が残る沖縄島のホワイト・ビーチから出発した留学生。アメリカ軍払い下げのHBT生地の軍服は背広に変わり、沖縄から持ってきた柳行李はトランクに変わった。

オリエンテーション終了後、留学生はそれぞれの大学に向かった。

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