禁止されていた自爆攻撃がアフガンで急増した理由

2001年12月にターリバーンが権力の座を追われた後、ターリバーンとAQの関係は、時を置いて徐々に再構築された。

例えば、ターリバーン内部で軍事部門を取り仕切っていたムッラー・ダードゥッラーは、2007年4月に行われ翌5月に配信された「アル゠ジャジーラ放送」のインタビューで、「彼(筆者注:ビン・ラーディン)は、常日頃から我々(筆者注:ターリバーン)と接触している」と述べるとともに、「イラクのムジャーヒディーンは兄弟であり、いつも連絡を取り合っている。我々は同じ目標を共有している」と発言している(Al Jazeera, May 13, 2007)。

こうしたターリバーンとAQとの密接な関係を推し量るうえで興味深い事例は、殉教者作戦(自爆攻撃)のアフガニスタンへの流入である。

アフガニスタンにおいては、1979年のソ連軍侵攻に始まり、1990年代の内戦の時代に至っても、自爆攻撃という手法は一切用いられてこなかった。現代のアフガニスタンで自爆攻撃が使用されるようになったのは、前述のアラブ人テロリストによるマスード司令官の暗殺事案が最初だといわれる。長らくアフガニスタンで禁忌とされた自爆攻撃は、2001年以降、時間の経過とともに増加傾向を見せた。2006年には年間140件以上の自爆攻撃が発生した(Williams, “Suicide Bombings in Afghanistan”)。

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アフガニスタンで自爆攻撃が行われるようになった背景には、イラクからの影響がある。イラクからアフガニスタンに「帰還」した外国人戦闘員は、ターリバーン兵士を訓練し、自爆攻撃はクルアーン(イスラーム教の聖典)によって正当化されると説き、これを推奨した。

「異教徒を自爆攻撃すれば天国に行ける」

筆者は2012年10月、西部ヘラート州で、パキスタン国内で自爆攻撃要員になるために育成され、のちに洗脳から解けたある若者にインタビューした。

当時まだ年齢は10代だった同人物は、パキスタン西部の街クエッタに連行され、意識が朦朧とする「お茶」を飲まされた後に、異教徒に対して自爆攻撃を行い殉教すれば天国に行けると繰り返し洗脳されたと語った。訓練は1カ月程度のものもあれば、もっと長いものもあったという。教育に当たったのは外国人だったという。

その後、訓練の合間を縫って第三者の仲介があり逃げ出すことに成功し、父親が2カ月かけて元に戻してくれたという。かくして、ターリバーンはAQと表裏一体の関係を維持・拡大し、自爆攻撃も厭わない軍事組織となった。

ターリバーンが自爆攻撃を正当化した論理は、ジハードから説明される。本来、自殺はイスラーム教においても、パシュトゥーン・ワリーにおいても禁じられている。しかし、異教徒が祖国を「占領」する状況に直面し、ジハードが宣せられている中にあっては、何にも代えてジハードに参加しなければならない。

世界第1位の軍事力を誇るアメリカ軍に対して、ターリバーンは自動小銃を抱えるだけのゲリラ兵であり、軍事的劣勢は明らかである。そこで、ターリバーンは、アメリカ軍による空爆や夜襲攻撃への抵抗の手段として、いわば比例原則に基づき、自爆攻撃を採用した。

19世紀に大英帝国軍がアフガニスタンに攻め入り、アフガニスタン人を不当に拘束したことに対して、アフガニスタン人は外国人とその家族の誘拐によって対抗した。ジハードとバダル(復讐)の考えが、この背景にはあった。

もっとも、その正当化の論理がどのようなものであれ、ターリバーンが攻勢を仕掛ける過程では、彼らが掲げる大義とは裏腹に、巻き添え被害により多数の民間人が死傷した。