平家一門を率い、劣勢を反転させた功績

都を離れた平家一門は九州にまで落ち延びる。

だが、そこで勢力を回復し、再び東上するのだ。

寿永2年(1183)10月には、木曽義仲軍を備中国水島で破り、再入京を企て摂津福原まで戻るまでになったのだ。

平家物語』によると、この「水島の戦い」における、平家方の大手の大将は、平知盛(清盛の四男)、搦手(背面)の大将は平教経(清盛の甥)であり、宗盛の活躍が記されているわけではない。

ただ、平家の総帥の立場であった宗盛が一門をまとめて、ここまで盛り返したことに疑いはないだろう(もちろん、それは宗盛個人の力だけで成し遂げられたものではなかったにせよだ)。この戦いの功績は宗盛に与えても良いと思うし、ここまで這い上がってくるのは誰にでもできることではなかろう。

源頼朝も基本的に鎌倉にとどまり、部下を戦場に適宜派遣し、結果を残していた。その点、宗盛も変わりない。だが、宗盛に愚将の評価が出てしまうのは、結果として源氏の勢いを止められず、壇ノ浦で敗北したからだろう。

徳川幕府最後の将軍・徳川慶喜にしても、名将か愚将かで意見が分かれているように、家を滅ぼした武将というのは、有能であったとしてもどうしても愚将論がつきまとうものなのである。

敗北が決定的だったのに、入水しなかったワケ

宗盛は壇ノ浦合戦においても醜態をさらしたと『平家物語』は描く。

同書によると、敗北が決定的になったのに潔く入水しない宗盛は、味方である平家の武士に海に突き落とされたという。

壇ノ浦合戦(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

それを見た宗盛の子・清宗は父を追って海に飛び込んだ。宗盛は泳ぎが上手だったので(清宗が沈んだら自分も沈もう、助かったら自分も共に助かろう)と思い、親子は互いを見交わしながら、あちらこちらへ泳いでいるところを、源氏方の武将・伊勢義盛に捕縛されたのだ。

この逸話、創作というわけではなく、前出の『愚管抄』にも「宗盛は泳げる人だったので、浮き上がり、浮き上がりしているうちに、生きようという思いが芽生えた。そして生け捕られた」とある。

この話、読者はどう感じるであろうか。確かに、武将としては潔くない態度かもしれない。

しかし、宗盛はいたずらに死を恐れていたわけではないように思う。(清宗が沈んだら自分も沈もう)と思っていたということは、死ぬべき時が来たならば死のうと思っていたということである。

よって、この話は、宗盛の息子への愛情があふれたものと理解すべきではないか。宗盛は都大路を引き回された時も、四方を見回して、落胆したような感じには見えなかったという(『平家物語』)。