源平合戦の幕開けであり、平家が衰亡していく契機になったのは、以仁王の挙兵(1180年)だ。平家打倒を願う以仁王の挙兵には、元は清盛の重臣だった源頼政が加担している。その原因を『平家物語』は宗盛に帰している。

頼政の子に仲綱がおり、「木の下」という名馬を所持していた。

その名馬を宗盛が所望したところ、仲綱は「休ませるために今は手元においておりません」との返答。それならば仕方ないと諦めていたら、実はそれはウソで、仲綱はずっと所持していた。それを知った宗盛はしつこく手紙を送り、馬をよこせと迫る。

結果、仲綱は泣く泣く馬を手放すことにした。だが、宗盛はその馬に「仲綱」という名をつけ、手荒く扱っているという。このことに、仲綱も頼政も憤慨し、挙兵につながったとするのである。

同書は宗盛の長兄・重盛が、仲綱の優雅な振る舞いに感心し、馬を与えた話を引き合いに出し、宗盛の無粋な行為を批判している。

『平家物語』では散々な書かれよう

『平家物語』は何かと重盛と宗盛を比べたがる。例えば、治承3年(1179)に、清盛が軍勢を率いて京都を制圧するクーデターを起こした際のことだ。

後白河法皇を捕らえに来た宗盛が、父・清盛の顔色を恐れているばかりの様子を見て、「兄・重盛とは比べものにならないほど劣っている」と法皇の口を借りて言わせている。

つまり、宗盛を無能・愚将・横柄と散々な描き方をしているのだ。

なぜ『平家物語』は宗盛をこのように描いているのか。想像するしかないが、あれほど栄えた平家を滅亡に追い込んだのだから「愚将」に違いないという発想が作者の胸中の根元にあったからではないだろうか。

また、物語としても、道化役や愚物が登場した方が面白いし、盛り上がる。名将が一段と引き立つという効果もあるだろう。

他の資料に描かれた姿は…

当時の日記や史書を見ていても、残念ながら、それほど優れた人物だとは思えない。

例えば、平家都落ち(1183年)の場面である。

京都に木曽義仲軍が迫ってきた時だ。彼らに対して、平家は戦うのか、もしくは都を放棄するのか。緊迫した場面である。この際、平家にとって重要な鍵となるのが、後白河法皇を手元(京都)においておくことであった。だが、法皇は比叡山に脱出してしまうのだ。

その原因をつくったのは、宗盛だった。当時の公家・吉田経房が書いた『吉記』という日記によると、法皇は宗盛に書状を送り「状況が非常に差し迫った時はどうするのか」と尋ねたという。すると宗盛は一戦を交えるのではなく、「すぐに御所に参上します」と返答した。

これによって、法皇に自分や安徳天皇を奉じて京から逃げる目論みを読まれてしまったという。迂闊と言えば迂闊であろう。

同時代の宗盛評もよくない。鎌倉前期に成立したとされる『愚管抄』によれば、この都落ちの時の宗盛は、「動転し、おろおろするばかりだった」と描く。