千葉の豪族の力を借りて、鎌倉に入る

頼朝は治承4年(1180)8月に、平家方に対し挙兵。最初の戦こそ勝利するが、平家方の大庭景親おおばかげちからの大軍とぶつかった石橋山の戦いでは敗北し、千葉県南部にまで落ち延びる。

その後、千葉常胤ちばつねたね、上総広常といった千葉の豪族の助勢を得て、頼朝は勢いをつける。そして、平家方の武士たちを次々に降参させた。そして、鎌倉に入り、そこを本拠とするのであった。

鎌倉に入った頼朝が最初に行ったこと

元々、敵対していた武士を頼朝はどのように処遇したのか。本当に残酷な男ならば「許さん」とばかりに処刑してしまうであろう。いや、残酷な性格でなくとも、敵方を殺すことは当時の武将として、特別なことではない。

では、頼朝はどうだったのか。1180年11月17日、頼朝は鎌倉入りする。まず、初めにやったのは、敵方だった曽我太郎祐信そがたろうすけのぶという武士の罪を赦しているのである(それと共に、部下の和田義盛を侍所別当=長官に任命している)。

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斬首するつもりだった男をゆるす

同月26日には、平家方についた山内経俊を助命している。

頼朝は経俊を初めは斬首するつもりだった。が、経俊の母・山内尼はかつて頼朝の乳母をしていた。その山内尼が泣きながら、わが子の命乞いをしたのだ。

頼朝挙兵前、経俊にも味方になるように、頼朝方から誘いがあった。しかし、経俊は誘いを断ったばかりか、使者に悪態までついたのだ。

乳母の子と言えども斬っても良かったかもしれない。だが、頼朝は経俊を斬らなかった。

経俊の先祖が代々源氏に仕えていたこと、経俊を斬れば山内尼が悲しむということで、罪をゆるしたのだ。