後ろめたさを感じさせない大らかなローマの風俗

帝国の都ローマは、江戸と同じ100万人規模の大都市である。やはり、そこでは売春がビジネスとして行われていた。

ただし、吉原のように特殊な遊郭文化が形成された気配はない。往時の町の造りが分かるポンペイ遺跡を見ても、そこに確認できるのは、ごくありふれた娼館の痕跡ばかりである。どうやら、市街の中心部にある曲がりくねった通りの一角が風俗ビジネスの中心地だったらしく、娼館が19、春をひさぐ女性たちの部屋が9つ、売春が行われていたとおぼしき2階屋が35ほど確認されている。

ルパナーレと通称される2階屋をのぞいてみよう。暗くて狭い部屋が並ぶ屋内は、いかにもそれらしい雰囲気がする。なにより娼婦の痕跡を感じるのは、部屋の壁に書きなぐられた数多の落書きのためだろう。

たとえば「女奴隷ロガスは8アス」「思いやりのあるメナンデルは2アス」といった娼婦の落書きは、彼女たちの値段をそのまま今に伝える。当時は、居酒屋でリーズナブルな定番ワインを頼むと1杯1アスの時代である。現代の常識から考えると、破格とも言える安さではないか。

落書きをしたのは娼婦たちだけではない。「アスベトゥス、ここにありき」「フロルスありき」と、悦楽の時を過ごした男たちも誇らしげに「証拠」を残している。なかには「フェリクスはフォルトゥナタと一緒に」など、友人と連れ立って来たことを刻んだ落書きもある。まるで観光地に落書きする不良少年のようだ。現代人が想像するような、後ろめたさや秘めやかさは微塵も感じられない。

ルパナーレ以外にも、テルマエの片隅や居酒屋の2階、はたまた名士の邸宅の一角にもそれらしい部屋があった。ポンペイの人口は、わずか1万人ほどである。街にはパンを売る店が35軒しかなかったのに、これほど多く愛欲の場があり、選り取り見取りだったというのは驚きである。

帝国内の他の都市も、ポンペイと同じくらい風俗ビジネスが盛況だったと思われる。しかし、吉原のように特筆すべき文化が培われた記録や痕跡はどこにもない。ローマ人は質実で合理的な人々である。揚屋遊びのように、面倒な手順をあえて楽しむようなことは、はなから眼中になかっただろう。

カエサルの名台詞をパロディにした落書きも

ただ、遺跡に刻まれた落書きを見ると、誘うほうも誘われたほうも明るい響きを持っている。屈託がなく、実に大らかなのだ。ローマの遊郭には、吉原とは異なるしたたかな精神があったのかもしれない。

写真=iStock.com/KenWiedemann
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思わずにやりとさせられるのは、娼家近くの壁に客が刻んだと思しき「来た、やった、帰った」という落書きである。これは、カエサルが戦勝を知らせるためにローマに送った手紙の名文句「来た、見た、勝った」のパロディだ。大らかさの中にユーモアと教養がのぞく、あっぱれな落書きである。

ところで、貧しい市民や奴隷が通うような娼家はたしかに下品で汚らしかったが、それを嫌う人々もいた。生活にゆとりがあり好みがうるさい連中は、自宅に女性を呼んでいたという。名だたる身分の人々の中には、かつらや頭巾をかぶり素性をかくして娼家に通う輩もいなかったわけではない。

さらに上流の殿方には贅を尽くした高級娼家もあり、もっとも著名な事例として、カリグラ帝が宮廷内に設けた売春宿がある。まるで皇帝直営の娼家であり、恥を失った経営者がそこで良家の婦女子や自由身分の美少年を提供して稼いだらしい。それは例外としても、売春と娼家がローマ人の日常生活に様々な形でとけこんでいたことは言うまでもないだろう。

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