江戸時代の吉原遊郭とはどんな場所だったのか。東京大学名誉教授の本村凌二さんは「単なる売春スポットではなく、歌会や書画会が開かれるエンタメスポットだった。こんな遊郭は世界中見渡しても例がない」という――。

※本稿は、本村凌二『テルマエと浮世風呂』(NHK出版新書)の一部を再編集したものです。

おいらん祭浅草観音裏通り
写真=iStock.com/JianGang Wang
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江戸幕府公認のビジネスとして開設された「吉原遊郭」

性愛を抜きに、歴史を語ることはできない。

文明あるところに売春あり。無論、江戸日本も例外ではない。1603年、家康が征夷大将軍となって江戸に開幕すると、間髪を入れず、市中のそこかしこに遊女屋が出現した。都市建設のため各地から集まった職人や人夫、大名家の家臣らを相手に、たいそう繁盛したという。

本村凌二『テルマエと浮世風呂』(NHK出版新書)
本村凌二『テルマエと浮世風呂』(NHK出版新書)

1617年、これらの遊女屋を一カ所に集め、現在の中央区日本橋人形町あたりに遊郭が開設された。これが吉原の始まりである。遊郭の設置は、第一に治安維持のためだったが、幕府は売り上げの1割を懐に入れている。つまり、公的なビジネスだったのである。

その後、日本橋が市街の中心地となっていったこともあり、吉原は浅草寺の裏に移転する。当時の浅草は市中の外れだったが、移転は大成功だった。吉原は以前にも増して賑わうようになる。

新吉原は、田圃たんぼが広がるばかりの辺鄙へんぴな在所に盛り土をして、四角く造成された。その面積は移転前の1.5倍近くに及び、東京ドームより遥かに広い。ローマでいうと巨大テルマエと同じくらいである。

女性が夜桜を楽しみに来る「異色な遊郭」

吉原は、江戸で唯一、夜通し灯りがつく別世界となった。周囲は堀で囲まれ、高い塀が巡らされた。入り口は大門一つのみ。門の両サイドには番所があり、一方には町奉行が派遣した同心と岡っ引きが詰め、往来に厳しい監視の目を光らせていた。

吉原は世界史的に見ても異色な遊郭である。というのも、吉原は全国から大勢の人が遊びに来るテーマパークとなっていたからだ。郭内のメインストリートである仲之町には、春になると見頃の桜が1000本も移植され、都の女性たちも夜桜を楽しみにくる。言うなれば、人の絶えないエンタメスポットだったわけだ。

妓楼ぎろうからは艶やかな音曲が聞こえ、桜や牡丹で彩られた仲之町を、絶世の美人が妹分を引き連れてしずしずと進む。当時、これほど華やかな空間は他になかっただろう。秋になると、「にわか」と呼ばれる寸劇も行われていたようだ。