驚くべきことに、「吉原細見」なるガイドブックも発行されていた。また、華やかな吉原の様子や遊女たちを描いた浮世絵版画は、江戸土産として大好評を博し、数多の絵師が筆をふるっている。なかでも吉原で絵の腕を磨き、遊女の日常を生き生きと描いて「北楼(吉原の異称)の絵師」と呼ばれたのが喜多川歌麿である。浮世絵に描かれる評判の遊女たちは、いわばアイドルであり、都の若い女性たちにとってはファッションリーダー的な存在だった。

最高ランクの遊女「太夫」と遊ぶためのいくつものハードル

吉原の遊女には、いくつものランクがある。最高位の「太夫だゆう」は、所作や容貌の美しさはもとより、高い教養を備えた別格の大スターだ。和歌を詠み、歌舞音曲に長け、茶の湯も生け花も修める。そうした太夫のような高級遊女とまみえる遊興は「揚屋あげや遊び」と呼ばれた。

それが可能だったのは、諸大名や徳川将軍家直属で家格のある旗本、あるいは町人の中でも飛び抜けて裕福な人々だけだった。太夫と遊ぶためには、途轍とてつもなくお金がかかるのである。

ただし、金さえあれば誰でも遊べたわけではない。客は、まず揚屋の座敷に幇間ほうかんや芸者を呼んで盛大に宴を催し、そこで揚屋の女将や「遣手やりて」と呼ばれる老女の挨拶を受けた。これは一種の面接で、客は素性や品性、懐具合を品定めされているのだ。

ここで合格となれば、ご指名の遊女が、数人のお供を引き連れて妓楼からやってくるのだが、客は揚屋の座敷の上座を空けて太夫のお出ましを待たなければならない。ようやく太夫が姿を現しても、客のことが気に染まなければ、太夫は一言も発することなく帰ったという。

なかには、待てど暮らせど太夫が来ないこともあったが、それでも料金を支払わなければならない。ここでは遊女が主役で、客に選択権はない。存外にシビアな世界なのである。

100万円支払っても遊女はただ黙っているだけ

太夫に気に入ってもらえたとしても、初回は盃を交わして終了。つまり、顔合わせをするだけなのだが、遊女の揚代から宴会費用、女将や遣手らへの花代やら諸々のチップやらで総額は100万円近くに及んだという。2度目も料金は同じで、遊女は上座に悠然と座って黙っているのみ。3度目にようやく馴染みの客と認められ、本懐を遂げることに相成るわけだが、この時は毎度の料金に加えて「馴染金」なる祝儀も奮発する必要があった。

馴染みになるということは、吉原という別世界において夫婦になることを意味した。他の遊女への浮気はご法度で、万が一発覚すれば、苛烈な制裁が加えられ、慰謝料を取られたという。

これほど独特なしきたりやルールがある遊郭は、世界史にも例がない。だが、吉原という遊郭は、その手間暇も含めて楽しむような世界だったのだ。一流の文化人が歌会を開いたり、書画会を催したりと、無粋なことさえしなければ、身分や肩書に関係なく交流できる側面もあった。つまり、粋な大人の社交場としても機能していたのである。

遊女道を極めた才色兼備の太夫は、吉原に暮らした遊女たちのごく一握りだった。揚屋遊びの盛期でも、吉原にいた遊女1700人のうち、太夫はたった5人だったという。しかし、太夫を頂点とする遊女たちの存在と吉原という場所が、「江戸らしい文化」を牽引し、豊かなものにしたことは間違いない。