地動説に魅了された絵師・司馬江漢

司馬江漢は、狩野派・浮世絵・唐画・洋風画という当時の絵画の全流派から画法を学んで自分のものとし、稀代の絵師として歴史に名を残す人物であるが、それ以外にも日本の歴史において重要な役割を演じている。

江漢が自らを描いた一枚(八坂書房『司馬江漢全集』第3巻より)

一つは、日本で最初にエッチング法によって銅版画を制作したことである。蘭学が隆盛になり始めた頃に彼は前野良沢りょうたくに弟子入りして蘭語を学び、エッチングの手法が書かれている本を読み解こうとした。しかし、良沢はよい先生ではなく、江漢もよい弟子ではなかったので、江漢は蘭語をモノにできなかった。

そこで江漢は、若き大槻玄沢げんたくの蘭語読解力の助けを得てエッチング技法を学んで完成させたのであった(1783年)。この頃、蘭学者はまだ少なく、草創期の学問の徒として互いに助け合っていた。しかし、それから10年経った頃には、玄沢は蘭語の先駆者として蘭学界を背負って立つ大物となり、幕府に蘭学を認知させて官学化することによって、蘭学を日陰の存在から陽の当たる学問へと昇格させたいと考えるようになっていた。

他方、江漢は絵師としての評価は上がったのだが、野人のまま自由に振る舞うことを望み、幕府の政策や封建体質を非難することもやぶさかではなかった。そうなれば、当然ながら幕府擁護派の玄沢と幕府批判派の江漢の間には軋轢あつれきが生じ、二人は衝突するようになり、江漢は蘭学仲間から追放に近い処分を受けた。その詳細は、私の前著『司馬江漢』(集英社新書)に譲るとして、この仲たがいが江漢にもう一つの重要な役割を演じさせる遠因となったのである。

地動説から宇宙の構造にまで空想を広げた

そのもう一つの重要な役割とは、江漢が1788〜1789年に長崎を訪れ、耕牛や良永と交流を持って地動説を知ったことから、科学のコミュニケーターとして地動説を日本で最初に唱道したことである。良永の翻訳で地動説は日本に紹介されていたが、その訳書は幕府内に留め置かれ、一般には写本によってでしか知られなかった。

江漢も、最初は地動説を奇異な説と受け取っていたのだが、この写本を見て地動説こそ正しいと確信して人々に宣伝することを自分に課すことにしたらしい。まず著書の『和蘭天説』(1796年)で地動説への理解を徐々に深めていく過程を正直に述べた上で、ついに『和蘭通舶』と『刻白爾コッペル天文図解』(1809年)によって、地動説から宇宙の構造にまで空想を広げ、星々の世界の全体像を考える宇宙論を提示するに至ったのである。