共演者・スタッフの全員を噛み殺す心持ちで挑んだ

そもそも、呼ばれたのはたった3人。なんとなくで座っているひな壇とは違う。いろいろな選択肢がある中で、少ない席に僕を選んでくれた。けれど自信はなかった。面白くできる戦略もなかった。

でも、死ぬ気でやろうということだけは決めていた。周りにどう思われようが、適当にやったとか、手を抜いたとか思われないよう、共演者だけでなく、スタッフ全員噛み殺す心持ちで挑んだ。それは定期的に呼んでもらえるようになった今でも変わらない。

『ゴッドタン』は編集が素晴らしい。生々しく臨場感に溢れる編集だから、放送後、みんなが褒めてくれる。

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けれどいつも、現場での手応えはない。収録後は後悔の連続だ。ああ言えばよかった、なんであそこでこれを思いつかなかったんだろう。あんな顔では不快感しかないだろう。俺は無能だ、無能な自分を呪いたい……。

だが編集され、整えられた番組を観た人からは褒められる。街でも若い男の子に声を掛けられる機会が増えた。

今でも後悔している“ある企画”

特に忘れられない企画に、「腐りカルタ」があった。

腐り芸人たちの吐き出す腐り名言でカルタを作るという、いわゆる大喜利だ。

板倉さんの大喜利能力は周知の事実、そもそも僕とはポテンシャルが大きく違う。岩井だってそうだ。ハライチのネタは大喜利をベースにして構成されていることも多い。

僕はその“大喜利ハンデ”を背負いながら、さらにこのふたりとは腐り方のレベルが根本的に違うと、鉄火場と化した本番中に痛感してしまった。自分の出す答えのパンチ力の弱さと、キレのなさ。孤独だった。

収録後、今でも忘れられないくらいにへこんだ。どうして逆にハンドルを切らなかったのだろう。僕は人と自分を比べないことにしている。

だから、板倉さんや岩井のように「なんであいつなんかが」とか「どうしてあいつがこんなつまらないことで褒められるんだ」とかは思わない。その時点でふたりには圧倒的に敵わない。しかも、そもそも大喜利へのハンディキャップも持っている。

今思えば……。それならば、腐りではなく褒める方、悟りの方に収録の途中でも構わずシフトチェンジすればよかった。

だが、そうできるだけの瞬発力も、それを実行できるだけの大喜利能力も僕には備わっていなかった。日頃の怠惰のせいだと思う。