親ガチャという宿命論的な言葉が生まれたのは必然

運不運に左右されるものとして人生を捉えることは、たしかに従来からありました。たとえば、人生すごろくのようなゲームもありました。しかし親ガチャでは、これから振るサイコロの目によって順位が決まるわけではありません。そもそもスタート地点が大きく異なっているため、これからどんなサイコロの目が出たとしても順位は変わらないのです。

土井隆義『親ガチャという病』(宝島社新書)

しかも、ガチャは工夫次第でリセマラ(リセットマラソン。ソーシャルゲームで目当てのアイテムを入手するまで何度もリセットすること)ができますし、すごろくゲームもやり直しができます。しかし、親ガチャを引けるのは生涯で一度きりです。けっして再チャレンジはできません。

親ガチャは、さまざまな偶然の結果の積み重ねではなく、出生時の諸条件に規定された必然の帰結として、自らの人生を捉える宿命論的な人生観です。親ガチャにおいて偶然に依拠しているのは、出生時の諸条件だけです。以後の人生は、すべてそれに規定されているのです。このような決定論的な人生観が高原社会に登場したのは、けっして偶然ではありません。それは、まさに今日の時代精神がもたらした必然の産物だといえます。

「国ガチャには成功しておいて」という批判は的外れ

しばしば指摘されるように、今日ではSNSの普及によって、他人の私生活がよく見えるようになりました。この可視性の高まりが、私たちの格差感覚を刺激し、親ガチャという言葉の普及を後押しした面もあるといわれます。しかし、すでに述べたように、今日のようなネットの発達の背後には、私たちの不安感の増大があるという事実を忘れてはなりません。そして、それこそが今日の社会の大きな特徴なのです。

先ほども触れたように、日本社会はすでに右肩上がりの時代を終えて、いまは横ばいの時代へと移行しています。生活水準においても、学歴においても、親世代のレベルを上回ることを容易に実感しえた時代はすでに終わっています。ほぼ平坦な道のりが続く高原社会に生まれ育った現在の若年層にとって、これから克服していくべき高い目標を掲げ、輝かしい未来の実現へ向けて日々努力しつつ現在を生きることなど、まったく現実味のない人生観に思えてもおかしくはないでしょう。

かつての若者たちが、見上げるように急な坂道を上り続けることができたのは、現在の若者たちより努力家だったからではありません。時代の強い追い風が後ろから吹き上げ、後押ししてくれていたからです。社会全体が底上げされ続けており、その上げ潮に乗れていたからです。しかし今日では、その上げ潮が引いてしまいました。努力することのコストパフォーマンスが大幅に低下してきたのです。

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各国の調査機関が参加して定期的に実施している「世界価値観調査」で日本のデータを眺めると、勤勉に働いても人生に成功するとは限らないと思う人が増え始めるのは、だいたい2000年を越えたあたりからです。青少年研究会の調査でも、具体的な設問の文言は異なっていますが、ほぼ同様の傾向が見受けられます。かつてのような上げ潮に乗れなくなったため、努力したことに対するリターンが小さくなり、それが人生観に影響を与えているのです。

それに加えて、経済格差が拡大し、さらに世代間連鎖によって固定化しつつあるという現実も、今日の人生観に決定論的な趣きを与えています。

世界的に見れば豊かな部類に入る日本に生まれた時点で、私たちは皆、国ガチャに成功しているはずなのに、親ガチャなどと不平を言うのは甘えも甚だしいという非難もありますが、それは大きな勘違いです。国全体が貧しければ、周囲との格差もあまり大きくはなりません。それを理由に孤立感が深まったり、居場所が失われたりといった事態も生じにくいでしょう。むしろ私たちは国ガチャに成功している面があるからこそ、親ガチャが顕在化しやすくなったと考えるべきなのです。

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