「母の苦労を考えると涙が止まらない」

1935年、野村克也は丹後半島の西部、「京都の奥座敷」と呼ばれた京丹後市竹野郡網野町で生まれた。父・要市氏の名前から「野要食料品店」という屋号の店を営んでいたものの、父の出征後は母・ふみ氏が店を仕切り、何とか生計を立てていたという。生まれてからわずか3年後、中国戦線で父は戦死した。

野村が小学校2年生のときに、母は子宮がんを患った。看護婦だった母は、自らの不正出血にピンと来たために、早めの発見で命を取り留めたのだという。さらに、翌年には母の身体に直腸がんも見つかった。

母子家庭の大黒柱が病に伏せたため、野要食料品店は休業するしかなかった。後に野村氏は「母は苦労するためだけに生まれてきたような人だった」と振り返り、「母の苦労を考えると涙が止まらない」と語っている。

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「たとえ身なりは貧しくとも、心の中は豊かでありたい」

終戦を迎えたのは小学校4年のときだ。日本中が貧しい時代だったが、そんな時代においても、野村家はさらに貧しかった。白いコメなど食べられるはずもなく、辛うじて自宅近くの海辺の砂地にサツマイモやジャガイモを植えて、空腹をしのぐ日々だったという。

貧乏であることで、小学生時代はよくイジメられた。

身体の大きなガキ大将とそのグループは、いつも野村氏を学校の校門で待ち伏せて、着ているボロボロの服のこと、粗末な弁当のこと、そして父がいないことをからかい続けた。教科書やカバンなど、持ち物がなくなったり、隠されたりすることも日常茶飯事だった。

後年に発した「たとえ身なりは貧しくとも、心の中は豊かでありたい」というのは、当時の自分を振り返っての言葉だったのだろう。

次第に、学校に通うことが嫌になり、気がつけば不登校の生徒となっていた。母は仕事に出ているので、昼間自宅で泣いていたことは知らない。誰にも悩みを打ち明けられずに泣いていると本当に自分が惨めになってくる。

自分の弱さがふがいなく、自分で自分のことが嫌いになり、劣等感はさらに大きくなっていく。