野球をやっている間だけは貧乏から離れられる
貧乏だからイジメられる――。この現実は幼い少年にとっては過酷なものだった。父が戦争で亡くなったことも、母が病気がちなことも、そして家が貧乏なことも、本人のせいではない。それにもかかわらず、こうしたことが原因となって激しいイジメは続いた。
当然、「貧乏はイヤだ」「絶対に金持ちになってやる」という思いが日に日に大きくなっていく。
そんなときに野球に出会った。野球をやっている間だけは、現実のつらさを忘れることができた。ユニフォームを買う余裕もないから、1人だけランニングシャツでプレーをした。
それでも、試合で活躍すればそんなことも気にならなかった。かつて野村は、「元々、運動神経には自信があったんだ。足は速かったし、バスケットボールも、バレーボールも、人並み以上に上手だったんだ」と言い、続けて「誰も信じてくれないけど」と笑っていた。
中学3年生のときに、母から「お前は成績が悪いから中学を卒業したら就職しろ」と言われた。「将来、プロ野球選手になって母を楽にさせてあげたい」と考えていたため、大きなショックを受けたという。
それでも、兄の協力を得て、峰山高校の工業化学科に進学した。ここに進学すれば、社会人野球のカネボウ(鐘淵紡績)の野球部に入るルートがあったからだった。
大の巨人ファンだが、入団テストを受けたのは…
高校では甲子園出場を目指したものの、その夢は叶わなかった。プロ野球チームから注目されるような選手にはなれず、世間から見れば無名校の無名選手でしかなかった。
だが、「もう貧乏はこりごりだ」という思いはますます強くなる。「少しでも家計の足しになれば」という理由で新聞配達をしていたある日、たまたま南海の入団テストの告知記事を見つけた。
以前から、自分の実力とレギュラーキャッチャーの能力や年齢を比較し、「試合に出るチャンスがあるとすれば、広島か南海だな」と狙いをつけていた。まさに、渡りに船だった。
自らは大の巨人ファンでありながら、「試合に出るにはどのチームがいいのか?」を冷静に判断していた。後の「知将」としての片鱗が垣間見えるエピソードだろう。野球部の顧問にそれを伝えると、「お前ならひょっとするかも……」と言い、大阪行きの汽車賃まで負担してくれた。