ところが、政子は一夜もたたぬ間に、山木の家を抜け出して頼朝のもとに走ったのだ。まるで恋愛ドラマの一幕を見ているようだが、これに似た話は、『曾我物語』だけでなく、鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』にも掲載されている。

『吾妻鏡』によると、頼朝と恋愛関係となった政子は、父・時政に一室に閉じ込められる。しかし、それでも、頼朝を恋しいと思う政子は、部屋を抜け出し、激しい雨が降る闇夜の中を頼朝のもとに走ったというのだ。(文治二年=一一八六年四月七日条)

夫の不倫相手を殺そうとする

これらの話も、どこまでが本当かという話もあるが、『吾妻鏡』に載る他の政子の逸話を見れば、事実だったのではと思えてくる。同書に載る有名な「亀の前事件」(1182年11月)を挙げよう。

その頃、頼朝は亀の前という女性を、伏見広綱の邸に住まわせ、不倫をしていた。ところが、その不倫が、牧の方(北条時政の後妻、政子の継母)の告げ口により、政子の耳に入る。

怒った政子は、牧宗親(牧の方の父)に命じて、亀の前が住む広綱の邸を破壊させた。単に邸を破壊しただけでなく、亀の前を殺そうとしたという説もある(広綱と亀の前は落命せず、無事に脱出)

「亀の前事件」の紹介はここで終わっていることが多いが、その後の展開話も、政子の性格をうかがう上で重要である。

亀の前を頼朝の指示で住まわせていた伏見広綱は、政子の怒りを買い、遠江国に配流となったのであった。事件以後も、頼朝は亀の前の所に宿泊するなど浮気を繰り返していたので、政子の怒りは収まらなかったのだろう。広綱としては、とんだとばっちりである。

頼朝の言いつけを守っただけなのに…

広綱のように、“とばっちり”をくらう例は他にもあった。

政子の娘・大姫は、人質として鎌倉にいた木曽義仲の嫡男・義高と恋仲だった。頼朝と義仲の関係が冷却化し、義仲が敗死すると、頼朝は義高の殺害を実行。

家臣を派遣して、姿をくらました義高を斬るのであった。実行したのは堀親家の郎党という。

大姫は悲嘆のあまり、病床に就くようになる。政子は「堀親家の郎従が悪いのだ。頼朝様の言いつけを守るといいつつも、内緒で義高殿の様子を姫に伝えて、うまく事を運べば良かったものを」と怒る。

そして、親家の郎党郎従を打首にすることを頼朝に強く迫ったのである。頼朝も政子の言葉にうなずくしかなく、その郎従は打首にされた。

郎党郎従としては、主命により義高殺害を実行したのに、それを後で「けしからん」ととがめられるとは、ひどいとばっちりである。

政子の言動を、わが子を思う母の想いと取れないこともないが、自らの意志を貫けない頼朝も「武家の棟梁」としては情けない。これでは、配流や殺害された部下がかわいそうである。