そもそも鶴岡八幡宮寺で神仏を切り離すことは不可能だった

だが、神仏を分離するもなにも、鶴岡八幡宮寺では最初から、神仏を切り離すことは不可能だった。

鶴岡八幡宮の歴史は、永承6年(1051)の前九年の役を前に、源頼義が戦勝を祈願して京都の石清水八幡宮を鎌倉に勧請したことにはじまる。

そもそも石清水八幡宮の祭神は、仏教に守られた八幡神である八幡大菩薩で、創立したのも奈良の大安寺の行教という僧侶。その後も社僧を中心に運営された、神仏が一体となった根っからの宮寺だったのだ。

治承4年(1180)、鎌倉に入った頼朝は材木座海岸の近くから現在地に移し、施設を整備していった。続いて、従弟で後三条天皇の曾孫の円暁が別当として園城寺から呼び寄せられ、その後の鶴岡八幡宮寺と頼朝との関係はひもとくほどに、寺としての側面が強調される。

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頻繁に繰り広げられた僧たちによる法会

文治元年(1185)2月13日には、頼朝は鎌倉中の僧を集め、大般若経30部を1日で転読する平家追討の祈祷を行った。

文治5年(1189)、亡き母を供養するために建てたのは五重塔であり、征夷大将軍を拝命した建久3年(1192)の正月には、元日から数日間、国家の隆盛を祈る修正会しょうしょうえという法会を初めて行った。

その年の7月、勅使が頼朝に征夷大将軍の辞令を渡したのは、八幡宮の西の廊だった。この例からもわかるように、頼朝は鶴岡八幡宮を、都の内裏に見立てていたといわれる。そこで行われていた行事の多くは、創建当初からきわめて仏教色が強かったのだ。

大河ドラマの主人公の北条義時も、たびたびここで法会を行ったり、薬師堂を寄進したりしていた。承久3年(1221)、承久の変が起きると、100人の僧を集めて世上の無事を祈る大仁王会が行われている。

ちなみに、承久元年1月、3代将軍の実朝を境内で暗殺した2代将軍頼家の遺児の公卿は、その前々年に就任したばかりの八幡宮寺の別当だった。