遊びの要素を含んだ日本の働き方

一方、日本では、ヨーロッパ由来の労働観がかなり根付いた現在でさえ、勤勉に働くこと、額に汗して働くことは美徳であるという価値観が明らかに備わっています。それは、労働に対しての差別さえ含んだ強烈なマイナスイメージとは全く異なる価値観です。この理由は様々ですが、その一つは伝統的な日本社会の働き方が「労働」ではなかったことにあります。

伝統的な日本人の働き方は、ヨーロッパ社会における労働のような必要性に迫られた苦役ではなく、「遊び」の要素を含んでいたとされます。このような働き方が「仕事」です。民俗学では、現在の日本でも農業や漁業のような自然を対象とした仕事の中には、このような古いタイプの働き方が残っているという研究がなされています。

農業のような自然を対象とした仕事は、他の産業よりもはるかに古くから存在しているため、古いタイプの価値観がより強く温存され続けてきたのでしょう。もちろん農業は色々な面で他の産業より近代化のスピードが遅れていたという面もあります。

ただ農業ではもう一つ大きな理由として、雇用労働者の多い他産業とは異なり、日本の農家が零細な家族経営だったことが挙げられます。雇用労働者でないなら、雇用主から強制されることもない。強制されなければ、どのように働こうと自由です。

しかし、仮に雇用労働者ではなく事業主であったとしても、働くことが楽しいのは「自由意志が存在している時」です。労働に限らず、どんなに楽しい趣味でも、強制されたり、生活のために何が何でもやらなければならなくなったりすると、楽しくなくなってしまう。

仕事に「楽しさ」を見出し続けている日本の農家

人並みの生活をしていくためには、ある程度の収入が必要です。現代社会の大半の職業においては、楽しいというだけでは生活が成り立ちません。お金を稼ぐためには、社会の要求に合わせる必要があります。野菜の出荷時間を農家の都合に合わせていたら、スーパーの野菜売り場が混乱してしまいます。いくら自然を相手にしている職業だからといって、晴耕雨読では生きていけないのです。

お金に縛られるようになった時点で既に自由とは言い切れませんが、お金だけではなく制度や働き方、そして時間の使い方なども現代社会に合わせなければなりません。すると、働くことは次第に、遊びの要素を含んだ「仕事」から、いわゆる「労働」にシフトしていきます。結果として、仕事の中から遊びの部分がどんどん削られていくことになるのです。

しかし、実はそれでも農家は農業の楽しみを失いませんでした。はたから見ると、草刈りのような必要性に迫られてやる作業は「労働」そのものかもしれませんが、農家はその草刈りにさえ楽しみを見出すこともあるのです。仕事の楽しさは、あくまでも自分自身の心の持ちようにかかっているからです。

それが草刈りなどの周縁的な作業ではなく、農作物を育てるという農家本来の仕事であれば猶更です。そこには当然、プロとしての意地もあるし、植物への愛情もあるはずです。仕事の一部が機械に代替されてしまっても、「労働」になってしまっても、自分が育てる野菜が美しい花を咲かせ、美味しい実をつけることは、農家にとって大きな喜びです。