エリート以外が政治に関わるのは有害という批判

代表制度の改革には、市民の参加と熟議が組み込まれるとなると、選挙で投票して終わりという現行の代表制度よりも、市民が政治で果たす役割や労力は増大する。このため、改革された代表制度がその機能を十全に発揮しうるかは、これまで以上に市民のパフォーマンスにかかってくることになる。ここから、こうした改革に対しては必ずといってよいほど次のような二つの批判が投げかけられる。

まず一つは、市民のコミットメントに関わる批判だ。多くのデータが示すように、現代の民主主義諸国の有権者はそもそも政治に参加する意思などない。半数近くの有権者はたかだか選挙に参加することさえ拒否をしているのが実情だ。その理由は、忙しかったり、時間の無駄と見なしたりと人それぞれかもしれない。あるいは、ただ関心がないだけかもしれない。しかし、いずれにせよ、実情に鑑みるなら、代表制度の改革が求めるような、より多くの参加などそもそも不可能だという批判だ。

もう一つは、市民の資質に関わる批判だ。それによれば、エリート以外の大多数の普通の人びとは、日常生活を営む以外の能力、特に公共的な活動に携わるのに必要な能力を欠いているため、そうした人びとを政治に関与させることはむしろ有害となるというものだ。

このエリート主義的見解は古代ギリシアから現代に至るまで、綿々と生き続けている。先に参照したシュンペーターのモデルからも分かるように、可能な限り市民の参加と熟議を制限する方向でなされる代表制度の擁護論のほとんどが、どのような理屈を持ってこようが、こうした愚民論的見解を根底に据えていることは疑いようがない。すなわち、政治はエリートあるいは専門家の仕事であって、愚かな素人は手を出すなというわけだ。

重要なのは政治への関心を喚起させること

以上の二つの批判には数多くの反論が民主主義の信奉者からなされてきたが、ここではそれらを参照することは控えよう。その代わりに、これらの批判から出発する。すなわち、現代の民主主義諸国の有権者のほとんどは政治に参加し熟議をしようとする関心もなく、そのために必要となる知識も能力もないという批判をひとまず受け入れよう。その上で、もはや役に立たなくなりつつある代表制度を前にして、ただ手をこまねいているのではなく、改革しようとするなら何が必要になるかを考えてみよう。

藤井達夫『代表制民主主義はなぜ失敗したのか』(集英社新書)

その答えは明らかだ。政治に対する関心を喚起させること、政治争点を理解し解釈するための情報を提供すること、他人との協働をとおして政治的有効性感覚(political efficacy)を育成させること。これらが必要となる。ただ、はっきりしていることがある。それは、現行の代表制度における選挙に限定された政治参加だけでは、これらは望むべくもない、ということだ。

選挙権だけ与えて、普段の生活の範囲内で情報を収集し、せいぜい家族や友人と意見交換して、期日までに投票しなさいというのでは、十分な情報も有効性感覚も得られる可能性はほとんどないに違いない。

だとすれば、関心を喚起させ、情報を提供し、有効性感覚を付与するよう仕組みや働きかけ、すなわち、人びとを市民としてエンパワーする仕掛けを綿密に設計し手続き化した上で、既存の代表制度に組み合わせればよいのだ。

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