競争こそ民主主義の本質という理解

代表制度の改革の狙いは、代表制度を再び民主主義の理念に奉仕する制度に作り直すことにある。では、その改革の手掛かりはどこにあるのだろうか。ここでは、シュンペーターの民主主義モデルを検討することから始めよう。

シュンペーターが提起した民主主義モデルは、しばしば「競争的民主主義」と呼ばれてきた。しかし、その内実は、政治エリートによる寡頭的支配を実現するための代表制度の構想という点にある。

実のところ、現代の代表制民主主義は、シュンペーターのモデルにますます似通ってきているように見える。民主主義の理念から切り離され、執行権力を行使する代表者が民主的なコントロールから自立しつつあるからだ。そこで、彼のモデルを参照することで現代の代表制度に欠けているものがいったい何であるかを類推してみたい。

シュンペーターのモデルを簡単に説明してみよう。それは、まず、ルソー的な民主主義理論、すなわち、ある政治体に共有された利益としての「公益」──ルソーの一般意志であり、規範的な政治学ではしばしばそれは共通善とも呼ばれる──を想定する古典的民主主義学説を否定することから出発する。公益なるものは、そもそも存在しない。仮に存在したとしても、それを発見し表明する方法などないし、有権者もその表明に必要な自立性や能力、技量を持ち合わせていないとシュンペーターは指摘する。

だとしたら、公益にせよ、一般意志にせよ、存在しえないものに依拠する古典的民主主義学説など、机上の空論にすぎないことになる。このように古典的民主主義学説を退けた上で提示されるモデルが、政治決定を行う上でのリーダーシップを獲得するために、代表者たちが有権者の支持を求めて行う「競争的闘争」というものである。ここに表れているのは、競争こそ民主主義の本質だという理解だ。

さらに、このモデルの核心には支持を求めての競争がある以上、その具体的な手続きは選挙ということになる。ここから、シュンペーターが民主主義を代表制度と同一視していることもおのずと分かる。なぜなら、選挙とは代表制度を構成する一手続きだからだ。むろん、代表制度と民主主義との間には何ら本来的な関係がないことは本書で繰り返し指摘してきた通りだ。

選挙活動を行う男性
写真=iStock.com/Shoko Shimabukuro
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政治エリートによる権力の私物化を防ぐことは困難

シュンペーターは民主主義の本質を競争と見なすことで、民主主義を有権者が信任もしくは不信任を表明する選挙の機能に切り詰めてしまう。本書で掲げた民主主義の理念から見た場合、こうしたモデルの最大の問題は、政治エリートによる政治権力の私物化や専制の可能性を防ぐことができるかどうかにある。

もちろん、この問いに対する回答は否定的なものとならざるをえない。その理由としてまず指摘できるのが、選挙が常に競争的であるとは限らないことだ。それが競争的であるためには、多くの条件が必要となる。例えば少なくとも候補者が二人以上必要であるし、その候補者間の経済的な力、あるいは社会的な力がある程度均衡している必要もある。選挙制度のあり方によって競争の度合いは異なってくる。また、競争が行われる外部環境、例えばメディアの中立性も不可欠だ。

さらに、選挙時の競争だけでは、代表者の行為を監督するには不十分であるという理由もある。これらは多くの権威主義体制においてだけでなく、現代の民主主義諸国でも実際に観察されている事態だといえよう。つまり、代表者は選挙と選挙の間の任期中に民主主義を破壊してしまうことは可能なのだ。

しかし、最も看過できない問題は、シュンペーターのモデルでは選挙が、そもそも政治エリートを民主的にコントロールするという目的ではなく、もっぱら政治エリートに政治的決定権力を占有させることを、したがって、そのリーダーシップを民主的コントロールから解放することを目的にしていることにある。ここから、シュンペーターのモデルでは、政治エリートによる権力の私物化や専制の可能性を防ぐことは困難であると考えられるのである。