共有のものを取り戻す方法

まず、共有のものに対する努力は、古くから政治学において共通善(common good)と呼ばれてきたもの、あるいはルソーが一般意志と呼んだものを出発点とすることはできない。換言すれば、そのような努力において、人びとの間に利害関心や価値観などの同質性が前もって存在すると想定することはできない。これは私たちの暮らす世界が多元的であるという事実を尊重することから必然的に帰結する。

なぜなら、この想定を許してしまえば、異なる人びとの間に存在する、利害関心や価値観、アイデンティティにおける差異が軽視されたり、あらかじめ排除されたりすることになるからだ。しかも、この軽視と排除は多くの場合、マイノリティの利害関心や価値観、アイデンティティに対して行われる。これは、現代世界の多元性が、権力関係からニュートラルなものではなく、支配と被支配、抑圧と被抑圧との関係に貫かれているためである。

また、共有のものに対する努力は、同質性を人びとの間に発見することや、共有された利益に対する合意に到達することを目標にするのにも慎重であるべきだ。というのは、その想定には、人びとの間の差異は乗り越えるべきもの、あるいは乗り越え可能なものという予断が存在するからだ。このような予断によって、現代世界の多元性の事実が歪められたり、否定的に見なされたりしてしまう可能性が生じることになる。

日本の投票用紙
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では、中産階級の消滅に伴い、社会経験や日常生活は同質的であるという共同幻想──日本では、それは「一億総中流」という形をとった──もすっかり霧散してしまい、利害関心や価値観、アイデンティティにおいて多元化したこの時代に、共有のものを取り戻そうとする努力は、どのように行われるべきなのか。そこで重要となるのが、人びとの間の差異をあらかじめ排除したり、事後的に克服されたりする対象として見るのを控えることだ。その上で、共通の課題を遂行すべく異なる人びとが集まり、一緒に活動する協働の機会や枠組みを模索することである。

この協働こそ《差異化された共有のもの》が、構築されるかもしれないその可能性にとって絶対的な条件といえる。なぜなら、異なる人びとが市民として出会い、互いを知ることになる協働の枠組みや機会がなければ、現代に相応しい共有のものの構築の可能性などそもそも探求のしようもないからだ。

もちろん、仮に構築されたとしても、その共有のものは限られた市民の間での、束の間のものかもしれない。むしろ、そもそもそうした程度のものさえ構築できるとは限らない。しかし、いずれにせよ、多元性の事実を前にしたとき、共有のものへの働きかけはこうしたアプローチをとらざるをえない。

こうして、代表制度に接続される新たな取り組みのもう一つの任務が明確になる。それは、共有のものを想像=創造するためには欠かすことのできない、協働の機会や枠組みを提供することである。