イギリスという、成り立ちがまったく異なる背景を持つ国の文学や近代化された文化を、日本に紹介するという仕事に真面目に取り組もうとするほどに、その限界を感じてしまいます。

ただ進んでいる文明だからとやみくもに日本人が学びどうがんばっても、その理解は上辺だけのものに留まり「逆効果」すら生んでしまうのではないかと、葛藤は深まるのです。

形だけ真似をしても、そこに息づく人々の精神まで考えなければ、本末転倒となってしまうと。

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「自力で作り上げるよりほかない」

西洋の外側に見えるもの、形があるものだけをただ取り入れても、その技術を生んだ思考法、背後にあった人々の思いやその理念にまでしっかり触れることができなければ意味がないと、漱石は考えました。

そもそもイギリスの人々が、自らの精神のあり方について、自らの言葉である英語で迫っていこうとする試みである「英文学」というものの本質に、日本人である自分がどこまで辿り着くことができるのか? 悩み始めます。

英語には英語の思考法があります。そして、その背景にはイギリスという国が、長い歴史の中で育んだ文化、人のあり方、個人としてのあり方などがあります。それは日本、あるいは日本語とは、まったく異なるものだと、漱石は感じていたのです。

ましてや、当時、俳句を愛し、日本的な精神による思考様式が骨の髄まで沁みこんでいた漱石です。国の背景にある文化、その基本にある精神的な土壌が異なる者が、その上澄みのところだけ取り出して理解した気になっても、誤解、誤読が生まれるばかりではないのか?

漱石の悩みは深まります。そこに生まれるズレ、ねじれ。漱石は、自分に課せられた仕事の意味がわからなくなります。周囲の人々からは、「神経衰弱」と言われるほどに、精神的にも追い詰められたと言います。

そして、独り徹底的に悩んだあげくに、英文学をただ表面的にありがたいものとして受容する姿勢を、断固拒否するのです。自分自身の道を切り開くためのある想いへと到達します。

この時私は始めて文学とはどんなものであるか、その概念を根本的に自力で作り上げるよりほかに、私を救う途はないのだとさとったのです。今までは全く他人本位で、根のないうきぐさのように、其所そこいらをでたらめにただよっていたから、駄目であったという事にようやく気が付いたのです。私のここに他人本位というのは、自分の酒を人に飲んでもらって、後からその品評ひんぴょうを聴いて、それをが非でもそうだとしてしまういわゆる人真似を指すのです。
(『私の個人主義』夏目漱石、太字は筆者)