2人は似たもの同士だった

頼朝の身辺に近侍していた義時だが、世の動乱がそれを許さないこともあった。

元暦元年(1184)8月、平家方討伐のため、源範頼(頼朝の異母弟)の軍に属して西国に下向した。彼らは豊後国(現在の大分県)に渡り、少弐種直しょうに たねなおの軍勢と合戦を行い、これを討ち取る。

その知らせを鎌倉で聞いた頼朝は大いに喜び、義時を含む御家人12名に対し、西海における大功を称賛する手紙を送った。その書状は義時のみに宛てて出されたものではないが、頼朝の義時に対するイメージはさらにアップしたに違いない。

ただ、義時には平家方追討の戦場で敵を討ち取ったなどの武勲はない。どちらかと言えば、範頼を補佐する立場であったのだろう。とはいえ、豊後に渡海する時に先陣であったので、勇気がある武将だったように私は感じる。

平家滅亡後の文治5(1189)年、奥州藤原氏を頼朝が攻めた時も義時はそれに従軍している。しかし、その戦場においても義時が武勲を立てたという話はない。頼朝に近侍していたのだろう。西国に出陣していた時を除いて、義時は常に頼朝の側にいた。

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の紹介文に「源頼朝にすべてを学び、武士の世を盤石にした男 二代執権・北条義時」との表現があるが、それもあながち誇張ではなかろう。頼朝の挙動を見る機会が豊富にあったからだ。

ちなみに、頼朝は幕府を開いた初代将軍ということで、さぞかし戦場で手柄を立てたように思われているかもしれないが、意外にもそうではない。治承4年(1180)、平家に対し挙兵した時に石橋山の戦いで実戦経験がある程度である。

頼朝と義時は、ある意味、似た者同士と言える。

恋の成就に一役買うことも

建久3(1192)年には、頼朝が義時の恋のキューピッドを務めることもあった。

2年ほど前から、義時は姫の前という幕府の女官に恋をしていた。彼女は、頼朝の乳母(比企尼)の親族・比企朝宗ひき ともむねの娘で、相当の美女だったようだ。

義時は何とか結ばれたいと思い、幾度も手紙を送るが、全然相手にされなかった。ところが、その話を聞いた頼朝が姫の前に対し「義時から離縁しないとの誓いの文書を受け取ったうえで、義時のもとへ嫁げ」と勧めたので、最終的に義時の恋は成就するのであった。

望みを達した義時は、頼朝に対しさらなる忠勤を励むことを誓っただろう。頼朝もわが子のように手塩にかけて育てた者が喜ぶのを見て、うれしかったはずだ。

頼朝の義時への態度は、保護者的であり父親的である。とはいえ、頼朝も単に困っている義時を助けたいと思うだけで行動したわけではないだろう。

北条氏と比企氏という二大氏族を結びつけて、将来、幕府を安定させたいとの願いもあったはずだ。