突然の主君の死に義時が思ったこと
しかし、頼朝との別れは突然やって来る。建久10年(1199)1月に突如、頼朝は死去するのだ。一説によると、御家人・稲毛重成の亡き妻の追善のために相模川にかけた橋の落成供養の帰途に落馬したのが死因であるという。
ちなみに、稲毛重成の亡妻は、義時の妹である。
妹の追善供養の帰途に敬愛する主君を災いが襲う。義時の悲しみは相当深かったに違いない。その一方で、義時は頼朝の嫡男・頼家を全力で支えるとの思いを深めていたのではないだろうか。
事実、頼朝の死後、北条氏は、梶原氏、比企氏、畠山氏、和田氏といった有力御家人を謀略や戦により、次々に打倒していく。
義時は、三代将軍・源実朝を廃そうとする父・時政と対立し、父を政界から追放する。
その後、彼を打倒しようとする後鳥羽上皇との戦い(承久の乱=1221年)にも勝利し、主君・頼朝が開いた鎌倉幕府を強固なものにすることに成功したのだ。