家にいただけで褒められた時政の息子義時
騒ぎは、これで終わらない。
愛する牧方の父宗親が大恥をかかされたことを知った北条時政が怒った。時政は頼朝が鐙摺から鎌倉に帰って来た14日の夜、頼朝に挨拶も無く、伊豆に引き上げてしまった。
時政のストライキを聞いた頼朝は慌て、時政の子義時が鎌倉に残っているかどうか、梶原景時の息子景季を義時の家に行かせて確認させた。
帰って来た景季が、
「江間(義時のこと)はいましたぜ(江間は下国せざるのよし)」
と報告すると、頼朝はまた、すぐに景季を義時の屋敷に行かせ、夜なのにわざわざ義時を幕府に呼び付けた。そしてやって来た義時に、
「おめェは将来、きっとオレの子孫を守ってくれるだろう(定めて子孫の護りたるべきか)」
と褒め、ただ家にいただけの義時に恩賞まで約束したのであった。義時は、
「恐縮です(畏れたてまつる)」
とだけ言って、家に帰って行った。おそらく寝たであろう。
政子は恐いが、亀前への浮気はやめなかった
頼朝、浮気。→政子、怒る。→頼朝、怒る。→宗親、泣く。→時政、怒る。→義時、ナンにもしてないのに褒められる。……という実にもってワケのわからない展開なのであるが、家庭内紛争というのは、往々にしてワケのわからない展開を辿るモノである。
結果としては、義時にとって漁夫の利と言うか、風が吹いたら桶屋が儲かった展開となったが、別に本人が望んだわけではないだろう。だって、義時はナンにもしていない。
その後、月が変わって12月10日。亀前は元いた小坪の中原光家の屋敷に戻った。
亀前は、
「御台様のお怒りが怖いです(しきりに御台所の御気色を恐れ申さる)」
とビビりまくりで頼朝に訴えたが、懲りない頼朝の亀前への愛は日に日にエスカレートしていたので、亀前は仕方なく頼朝の言うとおりにしたそうである(御寵愛、日を追いて興盛の間、憖じいにもって仰せに順うとうんぬん)。
それにしても、こと亀前に関わる件になると、頼朝の言動は常軌を逸している。飯島ならダメ、小坪なら良いという話ではないだろうに。
16日、伏見広綱は遠江国に流刑(!)になった。政子の憤激が持続していたからである。
もっとも、流され先は遠江であった。広綱は元々、遠江の出であるから、実態は実家に帰っただけであった可能性が高い。それでも頼朝が広綱を配流という体にしたのは、そうしなければ政子の怒りが収まらなかったからだろう。