代名詞「ライジング・ショット」の誕生

しかし、ここである大きな発見がありました、それは、「私のテニスはハードコートでこそ活きる」ということ。日本人よりはるかに体格がよく、強いフィジカルを持つ世界の選手のパワーとスピードについていくためには、これまでのプレースタイルでは通用しません。とくにレッドクレーではコートを広く使う人が多く、ボールに変化を入れつつ高低差もつけられると、走らされる距離が長くなってしまいます。

そこで私が考えたのが、自分が走る距離を縮め、相手にできるだけ時間を与えないようにするため、ボールをバウンドした直後に打つという方法。そう、これが後に「ライジング・ショット」と呼ばれるようになった打ち方です。私の代名詞ともなったこのプレーは、ボールの変化が起きないハードコートにおいて有利で、ハードコートのおかげで誕生したと言ってもいいでしょう。こうして私はサーフェスの違いを、「知識」としてだけでなく体で覚えていったのです。

世界4位から引退へ

1990年代、世界にはシュテフィ・グラフ選手、モニカ・セレス選手、ガブリエラ・サバティーニ選手、アランチャ・サンチェス選手、ヤナ・ノボトナ選手などのトッププレーヤーたちがいました。私は彼女たちと戦い、1995年に世界ランキング4位にまで上りつめることができました。

当時、日本人が世界のトップで戦うことは未知の世界での出来事でした。日本どころかアジアで見ても、世界的アスリートはメジャーリーグで活躍されていた野茂英雄さんくらいしかいませんでした。そんな時代、ヨーロッパ発祥のテニスにおいて日本人、アジア人である私が、結果を残し、存在価値を示すのは大変なことでした。戦わなければならないことはコートの上だけではありませんでした。

翌1996年は、私のテニス人生における大きな転換期となりました。

4月に国別対抗戦フェドカップが東京・有明コロシアムで開催され、日本はドイツと準々決勝で対戦。私は当時世界ランキング1位のシュテフィ・グラフ選手を破り、日本はドイツに勝利しました。7月にはウィンブルドンの準決勝で再びグラフ選手と対戦。当時、センターコートに照明がなかったため、日没順延で試合は2日間にわたって行われましたが、決勝進出は果たせず。

また、8月のアトランタ・オリンピックでは準々決勝でアランチャ・サンチェス選手と戦い、あと1ポイントのところで惜しくもメダルを逃しました。そして11月、ニューヨーク、マディソンスクエアガーデンで開催された、トップ16人が出場できる女子ツアー最終戦「チェイス選手権」を最後に引退。まだ26歳になったばかりでした。