自分で服を売る方が儲かるのではと思いつく

この話の肝は、GAPの古着を売ったということではなく、隣のブースの男が売っていた古着がはるかに格好よく見えたということだ。ニューメキシコに住んでいるとのことで、雑多な服を売っていたが、リーバイスやデニムジャケット、ウエスタンシャツ、リサイクルショップで入手したような品が多かった。

俺はピンときた。自分で服を買い付けてきて、ベニス・ビーチで売ればいいじゃないか。失敗したところで、たいしたことはない。当時お袋に送った別のハガキには、こんなことが書いてある。

「海岸でリーバイスの古着の店を始めようかと思う。一着10〜12ドルで売れたら、きっと金になるぞ……海岸で働くと太陽の光にさらされるから、俺の色白の肌にはよくないだろうがな」

リンダはちょっとヒッピー風、俺はロッカー風味のヒッピーだったので、もともと二人でリサイクルショップやヤードセールには足を運んでいた。その流れで俺は平日、リンダを誘って救世軍(バザー)のようなところに行き、店で売れそうなクールな服を探した。

ベニス・ビーチは週末になると大混雑だが、平日の屋台なんかはほとんど無人だった。実際はただの駐車場なのだ。平日は週末より10パーセント稼ぎがよかったので、一日10ドルで屋台を借りて、リーバイスを2、3着、古いヒッピー風のワンピース、古いペイズリー柄のヒッピー風ドレス、花柄のシャツをラックに掛けた。リサイクルショップで手に入れたアイテムの一部だった。

リーバイスはいつも需要が高かった。リーバイス501は、シェフィールドで暮らしていた80年代初頭のイギリスでは大人気だった。世界的にも人気があって、このブランドのある種の服はちょっとしたカルト的人気を誇った。ビーチにはリーバイスしか売らない連中もいて、破れているか、501か、チャックがついているか、ビッグEか、赤耳レッドラインかという基準によってA、B、C、あるいは1、2、3とランク付けしていた。

かなり厳密な区分で、こういった細かいことをよく知っているコレクターもいた。人気の度合いによって、値段は10ドルから30ドルまで上下した。

差別化を図るためにパッチを縫い付ける

さっきも言ったようにベニス・ビーチは人気の観光地だったので、週末になると大勢の人間でごった返した。フェイクのレイバンが欲しいという連中ばかりではなく、10ドルや15ドル、30ドルのリーバイスが目当てのやつもいた。需要があるのは明らかだった。だが服を売っているブースは山ほどあった。つまり差別化を図らなくてはいけない。俺たちはまさに、その手段を編み出した。

どんな手段だったか?

パッチを縫いつけるようにしたのだ。

初日の稼ぎは150ドル。

奇跡のような一日だった。

俺は内心叫んでいた。

ざまあみやがれ!

一日10ドルで雇われ仕事をするより、よっぽどいいじゃないか! 脳みそはフル回転していた。数え切れないほどのアイデアが次々と浮かび、まもなくリーバイス以外の服もカスタマイズするようになった。

KROQウィーニー・ローストにて。29歳のとき

あるとき、ジェット機や宇宙船の絵が描かれたベッドカバーを手に入れた。気づかなかったのだが、実は60年代に人気を博し、歴代大統領の肖像画も手がけ、ポップアートの第一人者として広く知られるピーター・マックスのデザインだったのだ。マックスはいろいろな絵を描いたが、俺が入手したベッドカバーのような、大胆な図柄のサイケなコラージュでも有名だった。救世軍で3ドルほどで手に入れたそれを裁断して、片っ端からジーンズに縫いつけた。

ガキの頃はヘビメタにハマっていて、自分のジーンズやジャケットにパッチを縫いつけていたのだ。だから、こういった作業はお手の物だった。ただし今回のテーマはアメリカで、エベル・ナイベル、『爆発! デューク』、キャプテン・アメリカ、赤白青がモチーフだった。

古い「ダシキ・シャツ」、つまり美麗な柄のアフリカの民族衣装や、ヴィンテージもののペイズリー柄のカウボーイ・シャツやドレスも買い付けた。出来上がった服にはクラシックな西海岸のロッカーの風味も入っていて、ベルベットのパンツ、レーナード・スキナード風の大きめのチューリップハットなんかもあった。

当時まだグレイトフル・デッドやブラック・クロウズの雰囲気が色濃く残り、そこへジャニス・ジョプリンやヘイト・アシュベリーのヒッピーテイストが加わったベニス・ビーチの全体の空気に、俺たちの商品は合っていた。