数年前まで、定価1万円以下のナイキのスニーカーが20万円超で売買されるという「スニーカーブーム」が起きていた。アトモス創業者の本明秀文さんは「『入手困難なスニーカー』は、差別化したいけれど皆と同じ服装をしないと不安という、矛盾したニーズを解決する手段になった」という――。(第1回/全2回)

※本稿は、本明秀文『スニーカー学 atmos創設者が振り返るシーンの栄枯盛衰』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。

なぜスニーカーが投資の対象に変化したのか

スニーカーを教材に、経済の仕組みとお金の稼ぎ方について解説していきます。それはバブルの作り方と崩壊のプロセスを理解することでもあります。

はたして、スニーカーブームとは一体なんだったのか。

この一連の狂騒を通じて見えてくるのは、次に儲かる転売商材はなにかという身近なトピックから、スニーカーに限らずあらゆるビジネスに共通する教訓まで、幅広い要素になるはずです。

なぜなら、スニーカーはとても特別な商材だからです。

本来、スニーカーは履けば1年で靴底に穴が空く気軽な消耗品であり、日常生活に欠かせない生活必需品だったはずです。それがやがて個性を主張するためのファッションアイテムとして扱われるようになり、高級車や高級時計のようなステイタスシンボルや、株式や不動産と同じような投資財として扱われるまでに至りました。

言ってみれば、この世に流通する商品のあらゆる要素を兼ね備えているのが、スニーカーというアイテムなのです。

つまり、スニーカーを紐解けば経済がわかる。それも国際経済という大きなトレンドが理解できると言っても大袈裟ではないでしょう。

ナイキ一人勝ちになったワケ

2014年から巻き起こったハイプスニーカーブームとは、つまり「ナイキ」ブームとイコールでもあります。なぜ、これほどまで「ナイキ」のひとり勝ち状態になったのか。

先ほどの項目でエアマックス95ブームについて説明しましたが、さらに時代を遡って同社の歴史を振り返りつつ、国際政治の流れと絡めながら説明していきましょう。

「ナイキ」が創業したのは1964年のこと。当初は「オニツカタイガー」(現・アシックス)のランニングシューズをアメリカで販売する代理店として創業しました。

ナイキ社の本拠地、オレゴン州ビーバートンのナイキ世界本社(写真=Coolcaesar/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)
ナイキ社の本拠地、オレゴン州ビーバートンのナイキ世界本社(写真=Coolcaesar/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons

71年からは「オニツカタイガー」から技術者を引き抜いて自社ブランドのランニングシューズの製造を開始していたものの、当時の「ナイキ」は何度もメインバンクから融資の継続を拒否されるほど、吹けば飛ぶような規模の小さな会社でした。

ただし「ナイキ」は当時から広告プロモーションが極めて上手でした。そのマーケティングへの熱意が描かれているのが、ちょうど2023年に公開された映画『AIR/エア』です。この映画はバスケットボールシューズの市場で苦戦を続けている「ナイキ」が期待の新人だったマイケル・ジョーダンと契約し、エアジョーダンが誕生するまでのストーリーを史実をもとに描いたもの。