「中国大返し」を可能にした城の痕跡

私の専門とする「城郭考古学」は城の考古学的な調査・検討を中心に、文字史料や絵図資料も検討する学融合の方法で、城の総合的な理解を目指します。そして城から歴史を読み解くとともに、歴史を体感するかけがえのない場所として城の保護と活用を考えます。

城は戦いのためだけではなく、政治や経済、文化の中心でもありました。城からわかることは多いのです。

城郭考古学の視点から中国大返しを考えるのに最初に注目したのは、兵庫県神戸市兵庫区にあった兵庫城でした。この城の存在は、もちろん文字史料から知られていました。

天正九年(一五八一)に、信長の家臣・池田恒興が築城した城で、摂津国を押さえた信長の拠点のひとつでした。兵庫城は瀬戸内海運の重要な港であった兵庫津に接していて、水運をコントロールする立地でした。この兵庫津は、古く奈良時代に設けられた大輪田泊にルーツがありました。

兵庫城はのちに豊臣秀吉の直轄地となり、江戸時代には尼崎藩の陣屋がありました。明治時代には最初の兵庫県庁が兵庫城の跡地にできました。

その後、この場所は市場になっていましたが、現在は大規模ショッピングセンターになっています。敷地の一角に兵庫城を記念した石垣のモニュメントがあります。

2009年5月27日、兵庫城の石碑と案内看板(写真=ブレイズマン/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

文字や絵図に残されていない“埋もれた歴史”

江戸時代の陣屋の頃のようすを示す絵図はありますが、戦国・織豊期の兵庫城を描いた絵図はなく、兵庫城のくわしいかたちは、長い間謎に包まれてきました。しかしショッピングセンター建設を契機とした大規模な発掘によって、考古学的に兵庫城をつかむことができたのです。

この発掘の結果、兵庫城は堀を兼ねた運河で兵庫津と船で行き来できた水城だったとわかりました。今でもショッピングセンターの横には大きな運河があって、当時をイメージすることができます。

江戸時代の奉行所だった頃には、外郭や主要部を厳重に囲んだいくつかの堀を埋め立てて、町家が周囲に建ち並んだこともわかりました。そして、こうした江戸時代の遺構の下に池田氏が築城した当初の兵庫城が残っていたのです。戦国・織豊期の兵庫城は、本丸の周囲に石垣と水堀をめぐらした立派な城でした。

海に面したやわらかい地盤に石垣を積むため、兵庫城は木を基礎にした「胴木」を採用した先進的な城でした。石垣の石材は基本的に自然石を用いていて墓石などの石塔の転用石も含んでいました。

こうした特徴や遺物から、兵庫城で見つけた石垣は天正期(一五七三~九三)のものと判明しました。この時期の拠点的な平城の具体的な構造がわかったのは大きな成果でした。