日本人の側から考えればわかることですが、「日本語は流暢でも話す内容が超つまらない外国人」と、「文法的にはめちゃくちゃな日本語をしゃべるのだけど、話す内容が面白い外国人」、どちらの話を聞きたいかとなれば、もちろんそれは後者でしょう。

それと同じで、アメリカ人からすれば英語は流暢で当たり前です。だから英語が流暢かどうかで話を聞いてくれるわけではなく、大切なのは話の内容なのです。

たどたどしい英語で何とか説明していたら…

私がアメリカに留学していた時のこと。シカゴのホテルのバーで飲んでいると「お前は日本人か」と尋ねてきたアメリカ人がいました。

「そうだ」と答えるとその相手は「俺はなぜ日本の自動車が売れるのか、よくわからないんだ」と言ってきました。

その時の私はアメリカに来たばかりで、たどたどしい英語しか話せませんでした。それでも身振り手振りを交えながら「アメリカはディーラーとメーカーが分かれているため、同じディーラーがフォードのクルマを売り、同時にGMのクルマも売るというように3つも4つもメーカーを掛け持ちしている」

「しかし日本はメーカーと販売の系列がしっかりしていて、マツダが潰れかけた時にはレイオフをせず工場でクルマを造っている社員たちをみんなディーラーとして派遣した」「それによって工場の人間たちが顧客のニーズを知るようになり、それでできたのがハッチバックのファミリアだ」「つまり、自社のクルマをよりよいものにして顧客のニーズに応えようという姿勢が工場にも販売にもあるから売れるのだ」というような話をしました。

「余計なことには気を使わない」と割り切れる人は強い

そうするとその相手は「コイツは発音は悪いけどすごく面白い話をするヤツだ」と、あとから来た奥さんに紹介して大層喜んでくれたのです。

それ以来、私は「発音なんてどうでもいいのだ」と思うようになりました。

適応障害になるような人は英語であれば「パーフェクトな発音をしなければいけない」と考えがちです。

先の大谷選手の例でいえば、彼にとって英語がうまくなるというのは野球選手として成功するうえでは余計なことなのです。そのように考えて「余計なことには気を使わない」と割り切れる人がストレスを軽減することができて、適応障害にもなりにくいのだと思います。

この大谷選手の例を一般の人に当てはめて考えれば、「仕事において人間関係はメインではないから、さほど気にしなくても構わない」と割り切ることも必要だということになるでしょう。