「世界標準になるようなライフスタイルを」
2007年7月、石見銀山は世界遺産に登録されました。この日、東京大学教授(当時)で都市計画を専門に研究されている西村幸夫先生から、私たちあてにメールをいただきました。
「石見銀山が世界遺産に登録されて、あなたたちはがっかりしているかもしれない。でもせっかく世界遺産になったのだから、そんじょそこらの世界遺産ではなく、イタリアの小さな村からアンチファーストフードに端を発してスローフードが世界中に広まったように、世界標準になるようなライフスタイルを発信してほしい」
西村先生は、私たちのことを「この会社は、単に雑貨業でもなく、アパレル業でもなく、この夫婦の生き方が産業になっている」とご著書の中でご紹介くださっていた方。また日本イコモス国内委員会(国際記念物遺跡会議)の委員長として、世界遺産登録にも関わっていらっしゃいました。私たちはこのメールにとても励まされ、そしてひょっとしたら本当にそれが可能かもしれないと思い始めました。
1万人もの観光客が押し寄せた
しかしながら世界遺産登録直後の8月、9月、10月。この小さな町に、ものすごい数の人が押し寄せてきました。多い日には人口400人の町に1万人もの人がやってきたのです。まさに激震です。この3カ月に発生した問題は、私たちの想像をはるかにこえるものでした。
問題は大きく3点。
まず1点目は、この町の魅力が見えなくなってしまったことです。訪れる人の多くは「世界遺産」という4文字にひかれてくるわけですから、目的は銀山の見学で、この町の魅力は二の次、三の次。私たちとしては、この町の暮らしの豊かさを前面に出したいわけですから、当然そこに温度差が生じます。
実際、本店に見えたお客さまから「お宅も世界遺産になったから、お店をつくったんですか」と言われたときのショックといったら……。これまで私たちがやってきた町並み保存やお客さまとゆっくり築いてきた関係性がすべて消されてしまったのです。これが1点目の問題点です。
2点目は町のキャパシティーの問題です。人口400人のこの町に1日1万人をこえる人が押し寄せると、どうなるか想像がつきますか。本店は私の家の目の前にありますが、家から本店にいく幅3メートルの道路が人の波で渡れないのです。まるで原宿の竹下通りです。歩く人は右も左も関係なく、前の人の背中を見ながら、どんどん歩く。異常な事態ですが、これが実態でした。
町に人が増えることで、ゴミやトイレの問題も起こりました。驚いたことに私の家の前の溝で用を足した人もいます。観光の目的が何かを忘れ、マナーや秩序、感謝といった人間本来の姿まで失われてしまった気がしました。
1年で過ぎ去った「ブーム」
周りはたくさん人が来て素晴らしいというけれど、住民からするととんでもない。せっかく来てくださったお客さまに十分なおもてなしができるわけもなく、町のキャパシティーをこえた集客は、住民、観光客、両者にとって地獄を見る結果となったのです。3点目は、経済的なピークをつくってしまったことです。世界遺産登録から3カ月は、人が大勢押し寄せて、この町にお金を落としていった。しかし3カ月を過ぎると、徐々に訪れる人は減っていきました。
地方の経済というのは、ゆっくりと成長していくことが住民にとっても商売人にとってもいいわけです。ピークをつくることは、その黄金成長率を焦がしてしまう。
ブームをつくっては荒廃させていく消費型の観光地は日本各地に山ほどあります。
黄金成長率を無視し、単に目先の利益だけを追いかけた結果です。
そのような事態に直面し、私なりに対応策をとりました。まず駐車場に給水所を設置し、お客さまが水を自由に飲めるようにしました。夏場で非常に暑い時期でしたので、倒れる人がいるのではないかと心配したのです。
そして観光バスを待つ人に向けて、拡声器で「この町のよさは世界遺産だけではありません。今度はぜひ町並みを見に来てください」とずっと語りかけました。本当の町のよさを知らずに帰られることが残念でしょうがなかった。
たいていの人が「この男、何をしゃべっているんだろう」と私のことを不審な目で見ていましたが、中には「あなたの言っている意味がよくわかりました」と声をかけてくれる人もいました。
非常に厳しい夏でしたが、ブームは1年ぐらいで収束しました。
目指すのは「生活観光」
この世界遺産登録の経験があって、私たちは根本的に観光のあり方を見直すことになりました。観光といっても、私たちが目指すものは「生活観光」です。
生活観光とは、訪れた人が私たちの暮らしを見たり、ここで出会う人と交流したりする新しい観光スタイルです。
私たちはこれまで30年以上、町づくりをしてきましたが、訪れた方には、この古い町並みを生かした暮らしのあり方や、私たちの姿を見ていただいてきました。そして若者たちがここで本当に豊かに暮らしていることを感じ取っていただきたいのです。たとえば、Iターンで来ている若者が、この町で結婚して家を探そうとしている、そういう話を聞くだけでも面白いと思います。
キーワードは「感動」です。人やもの、歴史を通して、お客さま一人一人に、どんな感動価値を与えることができるのか、それを柱に考えていきたい。私たちの暮らしの豊かさや誇りをどう表現していくか、住民もまた努力していく必要があるだろうと思っています。