世界遺産に反対の狼煙をあげる

そう思った理由の一つに、1995年に世界遺産登録された白川郷の例がありました。石見銀山の世界遺産登録の動きが始まったころ、有志二十数名で視察のために白川郷へ行きました。人の暮らしがある町が世界遺産になった例として参考になるのでは、と思ったからです。しかし当時は、観光優先の町になっているように見えました。

そこに住むおばあちゃんからは、こんな話を聞きました。おばあちゃんが畑仕事をしていると、カメラを持った観光客から「おばあちゃん、こっち向いて」と被写体にされるそうです。おばあちゃんは、ふつうに生きるために畑仕事をしているはずなのに、動物園の動物のように見世物になっている。最初は「どうぞ」とカメラにおさまっていたけれど、何回も催促されるといやになって、畑仕事は観光客のいない早朝と夕方だけにするようになったと言います。あまりに失礼な話ですよね。

その後、白川郷では行政と住民の話し合いの場を設け、当時、抱えていた問題の解決にのりだしたと聞きました。

それで私は反対の狼煙を上げたわけですが、最初は多かった異議を唱える仲間も、話が進むうちに、どんどん減っていき、最終的に数人しかいないという状態になっていました。世界遺産になれば町が豊かになると、どんどん喧伝されて、新聞をはじめメディアも「世界遺産に向けて」という見出しをつけてあおるわけですから、人々がそちらに進んでいってしまうのもしょうがない。1年ぐらいで流れが大きく変わっていきました。

議論の渦の中へ

土地の値段が上がると期待した人もいたようです。当時は世界遺産という言葉に何かマジックがあるように感じていた人も多かったのではないでしょうか。

これは、もういくら反対しても、単に奇人扱いされるだけで、一般的には理解されないだろう。ならば町の協議会に入り、そこで正々堂々と町のよさや未来を語り、そこから議論していこう。世界遺産になる準備として、住民や行政としっかり話し合って合意形成を得ながら町を守っていく。そう私は考えを切り替えて、この渦の中に入って動くことを決意しました。

そこから2年かけて、私は自治会の協議会長になり、町の住民憲章や町のルールをつくりました。1年365日のうち大半日は町を歩いて住民と話したり、町民集会や会議をしました。

住民は100人いれば100通りの考えがあって、全く同じという人はいませんから、全員の意見をまとめていくことには難しさが伴います。一人一人の考え方を認めながら「こっちの方向に向かっていくけれど、よろしいですか」と確認する。

それでも難しい場合は、とにかく頭を下げて「ついてきてくれ」「一緒にやろう」と言うしかない。何度も何度も会合を開き、もうみんなが疲れ切って「松場さんの言う通りでいいよ」というところまでやりました。

住民たちの手でつくりあげた「大森町住民憲章」
『過疎再生 奇跡を起こすまちづくり』(小学館)より
住民たちの手でつくりあげた「大森町住民憲章」