その松尾が上皇と学習院時代から極めて親しく、まさに「俺お前」の間柄であったことは、家族以外にはほとんど秘されていた。死後徐々に明らかにされたところでは、松尾は上皇の皇太子時代の教育掛であった元慶應義塾長、小泉信三(一八八八~一九六六)に選ばれて、皇太子の学友になった。

平成の天皇時代に上皇が続けた先の戦争での犠牲者慰霊の旅と、オバマのヒロシマ献花に至る松尾の日米戦後和解へ向けた活動は、不思議なほどシンクロしている。二人の間でどんな相談があったのか、まだ明らかにはなっていない。

抵抗としての東洋、アジア主義の系譜

松本、松尾の二人の先達ほどに深くとは言えないが、自身もアメリカを専門とする日本のジャーナリストとして必然的に中国とも関わることになり、日中関係改善を目指し、しばしば両国間を往復した時期もあった。

そうした活動のきっかけをつくってくれたのは、評論家の松本健一(一九四六~二〇一四)だった。その松本の中国観に大きな影響を与えたのは中国学者で評論家だった竹内よしみ(一九一〇~七七)である。竹内の中国観の根底にあるのは「抵抗としての東洋」だ。「抵抗を通じて、東洋は自己を近代化した」(「中国の近代と日本の近代」)。

竹内に直接まみえる機会はなかったが、松本健一とは十数年の交友を持ち、日中・日韓の和解のための活動の一端を担い、両国へいくどか一緒に旅をした。交友を通じて、松本が「抵抗としての東洋」という言葉に凝縮される竹内の精神を引き継いでいることに気付かされた。

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「抵抗としての東洋」とは「アジア主義」のいいにほかならない。「西欧の栄光がアジアの屈辱」であると述べた岡倉天心の『東洋の覚醒』に発し、自由民権運動のアジア連帯論をのみ込み、玄洋社・黒竜会、北一輝・大川周明を経て「大東亜共栄圏構想」に至る思想の系譜だ。その系譜の正嫡としての思想家は竹内であり、竹内を引き継いだのは松本だと思う。

太平洋戦争開戦を受け「大東亜戦争と吾等の決意」という宣言で感動に打ち震える思いを綴った竹内が、戦後は左派の評論家として革命中国を応援し、日米同盟に楯突いていったことに矛盾はない。竹内の中で、西洋近代に対する「抵抗としての東洋」は日本から革命中国に引き継がれたのだ。大東亜戦争に敗れた後、日本は「ダラク」した。「抵抗がないのは、日本が東洋的でないこと」である。さらに西洋的でもない、と竹内は断じた(「中国の近代と日本の近代」)。

同様に、北一輝や大川周明という、一般の人には右翼の大立て者と見られる思想家を研究するだけでなく、彼らに共感を抱いていたはずの松本健一が、いわば左派の民主党政権で内閣官房参与として対中関係改善に努めたのも、矛盾はない。竹内と一緒だ。松本の幼時の記憶の原点に、零戦を製造した中島飛行機の工場城下町だった故郷・群馬県太田市に、長く占領米軍の基地が置かれた屈辱感があることは本人が語っていた。