中国人は日本人をどう見ているのか。ジャーナリストの会田弘継さんは「かつての中国には懐深い『大人』がいた。日本と中国には深い傷を負っても切れない絆がある」という——。

※本稿は、会田弘継『世界の知性が語る「特別な日本」』(新潮新書)の第3章を再編集したものです。

街を展望する人
写真=iStock.com/AerialPerspective Works
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懐の深い中国の「大人」たち

一九八〇年代に張有忠さんを通じて台湾とは幸運な出会いができた。今でも感謝している。考えてみると、その後、長く駐在することになったワシントンとジュネーブで出会った中国人ジャーナリストや外交官らとの交友を持つことができたのも、張有忠さんとの出会いに導かれてだったのかもしれない。

彼は、古い祖先の代から長く台湾に住む「本省人」だったが、広く中国人であるという意識を持っていて、自身の回顧録に『私の愛する台湾と中国と日本』というタイトルを付けていた。アングロサクソン国家がいくつもあるように、体制の違う中国人国家がいくつかあってもいいではないか。そんなこともよく言っていた。

張有忠さんもそうであったが、その後出会った中国人には年齢にかかわらず、しばしば「大人たいじん」としか言いようのない鷹揚おうような人格を見て、少なからず感銘を受けた。

私が長く勤めた共同通信社の大先輩であるジャーナリスト松本重治(一八九九~一九八九)も回想録『上海時代』で、そうした懐の深い中国人らとの交友をなつかしく語っている。

中国外務省きっての国際派のひとりで、報道局長、フランス大使や外交学院長を務めた呉建民(一九三九~二〇一六)とは、彼が駐ジュネーブ大使だった一九九〇年代半ばに出会った。仕事での付き合いだけでなく、私がジュネーブを去るときは個人的に大使公邸で、後任者も入れて三人の会食まで開いてくれた。

戦中、南京から戦災を逃れて重慶に移った両親のもとに生まれた呉建民が、日本にどのような思いを抱いていたかは想像に難くはない。南京と重慶は日本の侵略の悪行を世界に知らしめた都市である。だからこそか、呉建民は別の思いを口にしていた。

「報道局時代に、東京の共同通信社を訪問し、犬養(康彦)社長にお会いできたのは光栄でした」