対米関係を重視する保守=重臣リベラルの系譜
二〇〇二年、その松本と一緒に日韓関係改善のための会議でソウルに出かけた。会議前日に着いて余った時間に二人でソウル駅に行き、松本が「上野駅の雰囲気と似ていて好きだ」という駅構内の食堂でビールを飲んだ。飲んでいるうちに竹内の葬儀の思い出話になった。久野収や丸山眞男も登場して、当時の論壇のひと模様が目に浮かぶような話だった。その流れで、かねて聞いてみたかったことを松本に尋ねてみた。
「日本の保守ってなんですか」
「うーん、それはね、丸山さんみたいな人たちだよ」
一瞬、とまどったが、同時に霧が晴れて新しい展望が見えてきた。
「オールド・リベラルたちだよ。天皇と重臣リベラルの系譜だ」
松本健一の色分けでは、松方正義の孫である松本重治、あるいは岡田啓介の大甥で、終戦工作に当たった鈴木貫太郎や迫水久常らとも親族関係にある松尾文夫は日本の保守=重臣リベラルの系譜である。彼らは対米英関係を重視する一方で、アジア主義者によって混乱させられた日中関係を改善しようとした。
米イェール大などに留学した松本重治は一九三〇年代の同盟通信上海支局長時代、日中戦争の和平工作に奔走した。戦後は国際文化会館を運営し、アメリカ学会創設に関わるなど、日米交流の要となった。共同通信ワシントン支局長などを歴任した松尾は、アメリカ専門家となり、晩年は日中関係改善に深く関わるようになったのは、すでに記した通りだ。
他方、松本健一からは「東洋の抵抗」の対象として以外に、アメリカへの関心を感じたことはない。『開国・維新』という名著の著者であり、維新期には深い関心を寄せているから、ペリー来航百五十年の二〇〇三年にアメリカ行きを何度も提案したが、断るわけでないがスルーされてしまった。日本ナショナリズムの触媒としてのアメリカ以外に興味はないと感じた。
では竹内のアメリカへの関心はどんなものだったのか。手元にある著作からは、中国と絡めてプラグマティズムの哲学者ジョン・デューイに寄せた関心ぐらいしか見えない。竹内が深く関わった論壇誌『思想の科学』で、アメリカ哲学に詳しい鶴見俊輔・和子から受けた影響であろう。
「アメリカと日本ほど中国にとって大切な国はない」
前置きが長くなったが、本題に入る。二〇〇〇年代に入ってから、二人の中国の知識人と対話した。その中で、彼らの奥深くに居座っている「日本の記憶」を垣間見た。一人は戦後生まれ、日本で言えばベビーブームの団塊世代だ。もう一人は戦中生まれ。ともに「文化大革命」の時代をくぐり抜けてきた。
戦後一九四八年生まれの著名な国際政治学者、王緝思と会ったのは二〇〇七年だ。『歴史の終わり』で知られるフランシス・フクヤマや『文明の衝突』のサミュエル・ハンティントンらが新しく興した論壇誌『アメリカン・インタレスト』の国際編集委員として、王緝思と私は一緒に名を連ね、同じ号に寄稿したこともあった。その縁で北京に訪ねてみた。王緝思は当時、北京大学国際関係学院長を務め、胡錦濤国家主席(当時)のアメリカ政治外交に関する顧問的存在といわれた。