初夏の日の昼下がり、ちょうど北京大学の卒業式が終わった後だった。ゆったりとした、しかし質素な応接室で王緝思の国際関係の見方を聞いた。「アメリカと日本ほど中国にとって大切な国はない。私の持論だ」。穏当な考えだ。「中国がこのまま経済成長を続け、たとえ(一人あたりのGDPで)日本に追いつこうとも、日本は技術力で中国を上回り続けるだろう。日本のエネルギー効率は中国の七倍だ」
王緝思のこの予想が十年以上経った今も正しいかは、疑問が湧く。まだ東日本大震災の前でもあった。当時彼が念頭に置き、大いに懸念していたのは中国の環境問題だった。だから省エネ・環境問題にこそ日中協力の将来があると見ていた。
「中国は巨大で活力に溢れ、激しく変化している。だが社会問題は数多く、根深く、深刻さを増す一方だ。日本はそれに比べ、小さく、変化は緩やかで、美しい。国土も大気も、環境全体がよく保護され、配慮が行き届いている。貧富の差が開いたといっても、中国やインド、アメリカに比べれば何でもないほどだ。安定した中産階級の国であり、世界でもまれな安定した国だ。尊敬の念を抱く」
日米同盟はおいそれと解消されるものではない、日中同盟ができてアメリカをアジアから追い出すなどということはありえない。そのことを冷静に見据えて、日中は競い合ったりせずに、安定した関係を保ち続けるべきだ、という。実に現実的な、おとなの思考だと思った。
「下放」時の贈り物
ただ、近代史を振り返れば「日本ほど中国に苦しみを与えた国はない」。事実だろう。欧米のどの国よりもずっと広い地域を占領し、被害を受けた人々の数もずっと多い。王緝思の父母も、盧溝橋事件(一九三七年)で、住んでいた北京を逃れ、侵攻する日本軍に追われて、ついには遥か南方の雲南省・昆明まで避難したが、そこでも日本軍の爆撃にあった。
そんな両親の苦労を聞いて育った戦後世代の王緝思だが、「日本人と聞けば、すぐにイヤだと思う感覚は持ったことがない」という。「とても特別な経験があるからだ」。そう言って、私のメモ帳を貸すように促すと、六人の日本人の名前をそこに書き留めた。
「みな、北京大学付属小中学校に通っていたころの友達だ」という。戦後、日中国交回復以前に中国支援のために北京に来た日本人家族の子どもたちだったという。親は北京放送の日本語部門などで働いていた。やがて、一九六〇年代半ばに文化大革命が始まると、彼らはみな日本に送り返されたという。
「私も下放(文化大革命期における知識人の農村への追放)でまず内モンゴルに、それから中国中部に行き、十年間、羊飼いをやったり、あらゆる肉体労働をした。北京に戻ったときは二十七歳。私の英語はその時から始めた」
王緝思とは英語で話したが、そんな遅くから学んだとは信じられないほど流暢だった。苦労が想像できた。
「私が北京を離れるとき、もうすぐ帰国する日本人の友人の家族が、餞別にといって小さな日本製の目覚まし時計をくれた。いなかで仕事をするには早起きしなければいけないだろうから、という気遣いだった。以来ずっと持ち歩き、大切にしている。宝物だ」