黄金を27キロ離れたA・P宅へ運搬

A・Pが到着したのは家を出てから5時間後の正午で、バンク・オブ・イタリーは開店していて無傷だった。町までの道中でいくつか火事は見ていて、それがどんどん町に入り込みつつあるのもわかっていた。でも分断されたのはガス管と水道管だけではなかった。町を支える文明機能の細い糸もへし折れていた。警察と消防隊は燃える都市への対応で手一杯だったので、炎より急速に無法状態が広がっていた。火事場泥棒の集団が暴れまわり、ちっぽけなバンク・オブ・イタリーには耐火金庫がなく、単に鍵のかかる箱とリボルバー拳銃が一丁だけだった。

A・Pは社員をスカテナ&サンズ社に遣わせて、商品馬車を2台調達した。銀行の黄金や記録をその馬車に載せ、お宝を野菜の下に隠して火事場泥棒たちにわからないようにした。日暮れまで待ってから、夜陰に乗じて馬を27キロ離れたA・P宅まで御していった。そして黄金を一家の暖炉の灰入れに隠しておいた。

やっとここに、起業家が親しみを感じられる人物が登場した。ぼくは火事場泥棒や燃えさかる都市に直面したことはないけれど、ご禁制CD-ROM4万枚をピケ線と検問を越えて巨大トラックで運んだことはある。このトラックはあまりに地上から高くジャッキアップされていて、本当にとんでもない様子だったので、やつらは後部ドアから中をのぞく気にならなかったのだ。でもわがメンターの物語は孤高の存在だ。後の「当行のお金は何週間もオレンジジュースのような匂いがした」というA・Pのコメントに到るまで。

ほかの銀行が閉店する中、都市再建のためお金を貸し始めた

地震の2日後、まだ煙が町の上をたなびいている中、サンフランシスコのあらゆる銀行の指導者たちが集まって、行動方針を選んだ。正確には、行動しない方針を選んだ――6カ月にわたり閉店することを決めたのだ。A・Pは激怒した。今こそ人々が、都市再建のためにお金や融資を必要としているのだ。他の銀行が恐怖に身をすくめている間に、A・Pとバンク・オブ・イタリーは、黄金入りの袋と帳簿を持って埠頭ふとうにでかけた。そしてサンフランシスコを再建したい人にならだれにでもお金を貸し始めた。

写真=iStock.com/number1411
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バンク・オブ・イタリーが構築したイノベーションスタックは、1世紀後にぼくたちがスクエアで創り出したものと不気味なほど似ている。ぼくたちは、システムを使いやすくして、だれにでも手が出せるものにするためにイノベーションを創り出した。急成長と口コミ広告を後押しするような新しい仕組みもあった。新しいリスクや保険の仕組みもあった。ルールの一部を変えるために、規制当局と戦って懇願しなければならなかった。何か見覚えがないか見てほしい。