銀行を使わない人たちのための銀行を作る

川を泳いで渡るなんてイカレてるって? ぼくは2回、会議に遅れまいとして満席のフライトにしのびこんだことがある2。また運輸エンジニア学会との契約のためにストリップをして入り込んだこともある3。どちらの行動も正当化するつもりはない。単に、アーモンドか何かを買いに裸の男が川を泳ぎ渡るというのは、ぼくには十分に筋が通って思えるのだというのを指摘したいだけだ。

A・Pはぼくが昔から求めていたお兄さんだった。

スカテナ&サンズ社は西部最大の商品取引会社となった。31歳までにA・Pは一生遊んで暮らせるだけのお金が手に入ったので、引退してある銀行の経営理事になった。

だが1901年の銀行というのは今日の銀行とはちがう。銀行は中小事業者を無視し、必死の人々を高利貸しに追いやったり、完全に倒産させたりしていた。

A・Pは他の理事たちを説得してやり方を変えさせようとしたが、失敗した。頭にきて彼は理事会を辞めると、町の反対側にある友人が働く銀行まで走って行った。「銀行を使わない人たちのための銀行を作るぞ。ジャコモ、どうすればいいか教えてくれ」。A・Pはそれをバンク・オブ・イタリーと名付けた。

A・P・ジャンニーニの話を初めて聞いたとき4、正しい星を見つけたのはすぐにわかった。ぼくたちは選んだ都市まで同じだった。このガラス吹き職人とマッサージセラピスト5がクレジットカード処理機を立ち上げる150年前に、ここにいたのが銀行を立ち上げる商品取引人だ。ぼくたちの動機もほぼ同じだ。もっと多くの人を含めて、不公平な仕組みを正しいものにしたかった。もう一つの類似点は、自分が何をやっているかまったくわかっていなかったということだ。

仕組みから排除された人々のために正しいものにしようというぼくたちそれぞれの決断は、他のクレジットカード処理業者や銀行と袂を分かった瞬間だった。A・P的に言えば「小者」6に奉仕できる仕組みを作ろうとすることで、二人ともイノベーションスタックを創ることにしていたわけだ。比喩的には、ぼくたち三人とも城壁都市を後にした。でもA・Pは、文字通り燃えさかる都市に駆け戻ることになる。

大震災により、サンフランシスコ市の30カ所で火事が発生

1906年4月18日の午前5時12分に、運命の手がA・Pとその家族全員をベッドから投げ出した。サンフランシスコ大地震はカナダでも体感できるほどの強さだが、サンマテオのA・Pの家は無事だった。家族の安全を確認して、彼はすぐに着替えると、サンフランシスコに乗り込んで自分の危ういバンク・オブ・イタリーを確認しに行った。

当初、町は生き延びたように見えた。一部の建物は地震で倒れたけれど、大半の構造物は木造で、木造構造はレンガより耐震性がある。もちろん、木には確かに別の欠点があるのだけれど。

うちの居間には、乾燥した木の束が、穴の開いたガス管と火の元の上にぶら下がっている。ぼくたちはこうした物体の集まりを「自動点火式暖炉」と呼ぶ。1906年にはそれが「サンフランシスコ市」と呼ばれていた。地下を走る脆いガス管は地震で壊れ、爆発性ガスのプリュームを木造建物の照明に使うランプのほうに送り出していた。町全体で、30カ所の火事が同時にあちこちで発生した。残酷な冗談として、ガス管を壊したのと同じ力が水道管も壊しており、住民による消火はまったく絶望的だった。サンフランシスコは炎上する。あとは時間の問題だった。