アスリートは自身の影響力を競技以外にも向けるべき

このたびの東京五輪で気になったのは、アスリートによる試合後のコメントがいささか定型的だったことだ。開催に尽力された大会関係者や支えてくれた家族や知人やファンに対する感謝を口にしていたものの、このコロナ禍で身を削りながら奮闘する医療従事者をはじめとしたエッセンシャルワーカーへのそれがほぼなかった。「復興五輪」を掲げたのであれば、東日本大震災などの災害による被災者に向けたことばもあって然るべきだった。もしかすると「みなさん」という括りに含まれていたのかもしれない。だが、宛先が明確でない感謝はしばしば拡散して、伝えたい人には届かない。こうしたことば遣いもまた身につける必要があるだろう。

この東京五輪はパンデミックの最中に開催された、稀有な大会である。1年の延期を余儀なくされ、開催すらも危ぶまれるなかで、出場選手は心身のコンディションづくりに苦心したことは想像に難くない。陰には延期されたことによって出場を逃し、やむなく引退を決意したアスリートもいた。元アスリートだからこそ彼らの苦悩は手に取るようにわかる。

競技への集中は、大会の規模が大きくなればなるほど難しい。現役時代を振り返ると、私はたとえ恋人や家族であっても集中が途切れるからと大会期間中は遠ざけるほどだった。ましてや開催への反対論が渦巻くこのコロナ禍である。批判や非難など集中を阻害する「雑念」は拭い難かったに違いない。「雑念」に翻弄されながらも、コロナ禍で自粛が強いられる社会を自らのパフォーマンスで元気づけようとしたアスリートには、あらためて敬意を表したい。

その上であえて苦言を呈すと、スポーツは観る者を魅了する、社会をエンパワーメントできる、感動や勇気を「与えられる」とまで思っているのなら、その影響力をなぜパフォーマンスに限定したのか。もう一歩踏み込んで、社会に対するメッセージを発しようという気にはならなかったのだろうか。

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当たり前だがスポーツでコロナ患者は治療できない。スポーツでは生活の困窮に喘ぐ者を救えない。スポーツがエンパワーメントできるのは観戦する余裕がある者のみで、そこから弾かれた人には届かないという現実がある。それを直視すべきだった。なにより指導者や関係者など周囲にいる人がそれを注視するよう促すべきだった。

能弁でなくてもいい。ためらいがちに訥々とことばを継いだって構わない。聴く者はその余白からをもメッセージを読み取る。だからアスリートは社会に向けて恐れずにその胸の内を語るべきだった。その心意気を、多くの人は待ち望んでいたと私には思われる。

これからのアスリートはことばを持たなければならない

ここで元アスリートの私は立ち止まる。現役時代の私はことばを持ち合わせておらず、適切なことばづかいもできていなかったからだ。

もちろん社会も見えていなかった。それを教えてくれる人も周りにはいなかった。いや、そもそも教わろうともしていなかった。パフォーマンスを最大化して試合に勝つことだけを目的に、ただただ楕円球を追いかけていた。

スポーツにまつわる不条理、たとえばレギュラーにならなければ意見を口にするのはおこがましいとか、痛みに敏感でからだの違和感を事細かに訴えるのはメンタルが弱いからだとか、苦痛に耐えることこそが上達への近道だとかには薄々感づいてはいたものの、それを掘り下げようともせずどうすればいいのかわからないまま時間を浪費していた。あたかもそれらが疑いようもない自明なことであるかのように捉えている人たちからの同調圧力に抗えず、自らの意見を積極的に発信するなど思いもよらなかった。

そう、かつての私はスポーツ馬鹿だった。だからこんな正論を吐く資格はないかもしれない。かつての自分が果たせなかった思いを押しつけているだけなのかもしれない。そう自省し、厚顔無恥を承知でなおもこうして主張するのは、スポーツの未来を健やかにしたいからである。

もし過去に戻れるのであれば、あのときの未熟な私に言ってやりたい。

社会を知れ。見識を高めろ。ラグビーだけやってたらダメだ。これからのアスリートはことばを持たなければならないんだ。さもなければいつまでもスポーツは利用され、その陰で社会的弱者が排除され続ける。スポーツの未来が健やかになるように努力をしろ、と。