今回の東京オリンピック・パラリンピックの開催にあたり、スポーツ界の当事者はいったいどう受け止めたのか。元ラグビー日本代表で神戸親和女子大教授の平尾剛さんは「現代アスリートはただ競技だけすればいいわけではない。自身の言葉を持ち、発信しなければ、都合よく政治家の『スポーツウォッシング』に利用されるだけだ」という――。
レスリング女子50キロ級決勝、優勝して日の丸を掲げる須崎優衣(中央)ら
写真=時事通信フォト
レスリング女子50キロ級決勝、優勝して日の丸を掲げる須崎優衣(中央)ら=2021年8月7日、千葉・幕張メッセ

元アスリートが五輪廃絶を訴える理由

東京オリンピック・パラリンピックが閉幕した。大会前の開催の是非をめぐる喧騒がまるで嘘だったかのように静かだ。「五輪批判」は背景に退き、世間は新型コロナウイルスの感染対策に手一杯となっている。

すでにご存知の方もいるだろうが、私は一貫して東京五輪に反対の意を示してきた。東京五輪の中止とともに五輪そのものの廃絶を呼びかけてきたし、いまもその意思は変わらない。

元アスリートなのになぜ反対しているのか。それは道義に反することではないか。スポーツの恩恵を受けた身でありながら、その祭典である五輪を批判するのは恩知らずだろう――。

ツイッターのアカウントにはこうした声が相次いだ。スポーツ界から声を上げた数少ないひとりとして、その勇気を称賛する声が大半を占めたものの、一部では「身のほど知らず」という心ないことばが届けられた。社会的な発言に賛否はつきものだから反論を賜るのは致し方ない。

元アスリートの私が東京五輪の中止を訴え、五輪の廃絶を呼びかけるのはなぜか。

それは「スポーツがいいように利用されているのを見過ごせない」からである。

権力者が都合の悪い事実を隠す「スポーツウォッシング」

1992年のバルセロナ五輪に出場経験がある元サッカー選手で、米国パシフィック大学教授のジュールズ・ボイコフ氏は、五輪反対論の第一人者である。ボイコフ氏が批判する論点のひとつに「スポーツ・ウォッシング」がある。これは「スポーツイベントを使って染みのついた評判を洗濯し、慢性的な問題から国内の一般大衆の注意を逸らす」ことを意味する。私なりに言い換えると、政府や権力者が自分たちにとって都合の悪い事実をスペクタクルへの熱狂で覆い隠すことを指す。さしずめローマ帝政期における愚民政策のモットー、「パンとサーカス」を彷彿とさせる指摘である。

奇しくもこの批判が正鵠を射ていることを、ある発言が立証した。

開幕してまもなくの7月、自民党の河村建夫元官房長官は「東京五輪がなければ国民の不満がわれわれ政権に向く」という趣旨の発言をし、日本代表選手が活躍すれば次期衆院選に向けて政権与党への追い風になるとの認識を示したのである。

五輪の政治利用を、これほどあからさまに公言した例を私は寡聞にして知らない。「一般大衆の注意(不満)を逸らす」ために五輪が必要だという本音を記者に吐露する脇の甘さに驚くとともに、出場選手への敬意が微塵も感じられないその口ぶりに怒りを禁じ得なかった。

むろん、いまさら五輪が政治と切り離されているなどと信じてはいない。西側諸国がボイコットした1980年モスクワ五輪を挙げるまでもなく、歴史をたどれば五輪はすでに第1回大会から政治的だった。それでもなお憤るのは、なんの衒いもなく記者に口走るその軽率さである。少しでもスポーツに敬意を抱いているのであれば、建前を口にするはずだ。

平たくいえばスポーツは舐められている。表向きには美辞麗句を並び立て、その裏では政治的な意図を働かせてスポーツを隠れ蓑に粛々と政治家は活動する。