五輪開催で犠牲になる人たち

「スポーツ・ウォッシング」ありきのこの五輪体質はなにも今回の東京五輪だけにとどまらない。歴代の五輪でもさまざまな不条理が置き去りにされた。

なかでも注視すべきなのは「社会的弱者の排除」である。

『東京オリンピック2017 都営霞ヶ丘アパート』は、新国立競技場建設にともない立ち退きの憂き目に遭った人たちを追ったドキュメンタリー映画である。平均年齢65歳以上の住民が暮らすこの高齢者団地には単身で暮らす者が多く、何十年ものあいだ助け合いながら共生してきた。2012年7月に東京都から移転を要請する一方的な通知が届き、住民は転居せざるをえなくなってコミュニティは失われた。ささやかな老後を失われた住民の悲痛なまなざしが画面を通して突き刺さる。

2008年の北京五輪でも、150万人が適切な補償金が支払われず立ち退きを余儀なくされた。強制退去に異議を唱えた人々には、「労働による再教育」という名目で告訴なしに収監する刑が下されもした。また2012年のロンドン五輪では、五輪のための再開発による家賃の上昇に直面し、その地に長らく住んでいた人々は転居せざるをえなくなった。2016年のリオ・デジャネイロ五輪では、貧困地域への社会福祉活動や子どもたちへの教育活動などが行われていたマラカナン競技場が、開催にともなって取り壊された。

競技会場や選手村など関連施設の建設予定地ならびにその周辺では、以前からそこに住む人たちの人権が蹂躙されてきた。とりわけ社会階層の下に位置する人たちに顕著である。馴染みの店に通えなくなる、近所づき合いが断たれて友人や知人と離れ離れになる、福祉や教育の場を失う。こうして「居場所」を奪われた人たちは、どのような思いでいまを生きているのだろう。少なくとも五輪への反感を抱いているのは間違いない。それが転じてスポーツに向かっているとすれば、元アスリートしてこんな悲しいことはない。

声を上げたくても上げられない人たちの悲痛さをも、五輪はことごとく洗い流す。この現実に、そろそろ私たちは向き合わなければならない。とくにその当事者たるアスリートおよび元アスリートはそうだ。自らが立つ(立った)輝かしい舞台の裏側で繰り返される目を覆うほどの不条理に、目を向けなければならない。特別扱いされるのをいいことに、社会から隔たったところで粛々と活動するのがアスリートの役目ではない。これ以上、社会に背を向けることは許されない。

スポーツが利用され、その裏では目を覆うような不条理を生んでいる。この現実を見ようともせず、ひたすら沈黙を続けるのであれば「加担者」としての謗りは免れないだろう。

“だんまりを決め込むアスリート”に反発する国民

東京五輪の開催をめぐっては一部の心ない人たちがアスリートおよび元アスリートを非難した。開催前の5月に水泳の池江璃花子選手は、自身のツイッターで出場辞退や反対の声を上げるよう求めるメッセージが届いていることを吐露した。また、社会に向けてメッセージを発する数少ないアスリートである体操の内村航平選手の発言には、そのたびに賛否が巻き起こった。

もちろん誹謗中傷は許されない。絶対に容認してはならない。だが、批判したくなる気持ちはわからないでもない。アスリートおよび元アスリートが社会に対して何を思い、どのように考えているのか、彼らはおそらくそれを知りたいと望んでいたのだ。内村選手をはじめ発言を厭わないアスリートは少数ながらいるものの、スポーツ界全体として「だんまり」を決め込むその態度に異議申し立てをしたのだろうと思う。

アスリートおよび元アスリートもまた社会で生きるひとりの人間だというなら、この申し立てに応える義務がある。そのためにはことばが必要だ。パフォーマンスだけでなく社会に向けたことばが。パフォーマンスのみならずその一挙手一投足が社会に多大な影響力を及ぼすトップアスリートはとくに、それにふさわしいことばを持ち合わせなければならない。

男性アスリートがエクササイズマットに座る
写真=iStock.com/AzmanL
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イメージ戦略として積極的にSNSを活用するアスリートが増えているいまなら、そこで発言することだってできるはずだ。SNSは、その取り組み方次第で社会の動向を知るためのツールとしても役立つ。ジャーナリストや研究者をフォローすれば専門的な知見はもとより、日々の何気ないつぶやきからその人物の考え方にも触れられる。医療や教育や福祉、また国内外の紛争地や被災地などそれぞれの現場で奮闘する方々の経験に裏打ちされた声からは、社会や世界の一端を知ることだってできる。ダイレクトメッセージで直接やりとりすれば、こうした方々とリアル社会での直接的な交流が始まることだってある。

発信するだけでなく受信すらもできる双方向的なメディアを自前で作る。そのつもりでSNSを活用すれば社会とつながる回路が作られ、そこでことばは磨かれると私は思う。