「病気を治せば苦痛も緩和される」が従来の考えだった

私が医師になった2000年代初頭は、まだまだがんの患者さんの痛みや苦しみに対して、今のようにあの手この手で緩和策を講じるというのが一般的ではない時代でした。

医療用麻薬などの鎮痛薬の使い方も、今に比べれば、洗練度はまだまだというのが一般的な臨床現場であったのではないでしょうか。

それは偶然の出会いでした。

たまたまナースステーションに『最新緩和医療学』という緩和ケアの教科書が置いてあり、それを読んでみると目から鱗でした。

病気を治せば症状も緩和される――これが旧来の考えでした。しかしそれだと、治らない病気の人の苦痛はどうすればよいのか? という話になります。実際、2000年代初頭の末期がんの患者さんは苦しんでいました。しかし苦痛はなかなか取り除けませんでした。

『最新緩和医療学』は、症状の緩和ケアに特化した本でした。

今の常識からすると考えられませんが、私は緩和ケアという名前を知らずに医師になりました。医学部時代の麻酔科の講義で痛みについては習いました。しかし緩和ケアという苦痛全般を、体だけではなく心も、治療・ケアする専門科があるということを知らずに医師になったのです。

そのため、その本の記載は大変インパクトのあるものでした。すぐさま、それに記してある通りに緩和ケアを開始してみました。

臥せりがちだったがん患者が歩けるようになった

結果は驚くべきものでした。60代女性の、非常に重い肺がんだったIさん。少し動くだけで息が上がりました。胸水という胸の水が肺を広く覆っていたからです。私はステロイドや医療用麻薬などの症状緩和薬を調節しました。

するとどうでしょうか?

病棟の廊下で、他の患者さんの車椅子を押す彼女の姿を見かけるようになったのです。昨日まではベッドで臥せりがちだった人がそれほど元気になったわけですから驚きも大きかったです。実は、薬の使い方次第で患者さんの苦痛のレベルは激変するのです。

さらにそれにとどまりません。緩和ケアは患者さん本人だけではなく、ご家族にも提供することがうたわれています。Iさんは深刻な家庭不和のまま末期の状態を迎えていました。試行錯誤ではありましたが、看護師とも協働しながら、家族が何とかIさんと一緒に過ごせる時間を確保するように努めました。不和を残したまま最期まで過ごすことは、Iさんにとってはもちろん、家族にも必ずや悔いが残る結果になると思ったからです。

家族の方との対話を重ねた結果、残り少ない時間に、せめてものことをしてあげたいと思ってくれたご主人、息子さんや娘さんの力で、Iさんは一時ご自宅に帰ることもできました。

そして当時は大変苦しい症状となりがちであった末期肺がんの患者さんであったにもかかわらず、最後は鎮静下で穏やかに生を全うされました。