人生の糧になったPL学園「研志寮」での“刑務所のような生活”
1967年、宮崎県生まれ。地元の小中学校に通い、高校も県立校に進学予定だった。そこに大阪の名門、PLで入部枠が空いたと勧誘され、進学可能になるから人生はわからない。
「推薦してくれたのが中学のチームで対戦していた相手の監督でした。僕はピッチャーでしたが、試合中にこの人によく『グローブの色が紛らわしい』とか、『牽制がボークだ』とか注意されて……。なんで推してくれたのか不思議なんです」
中3の正月、鹿児島の指宿でPLに翌春に入部予定の一部の選手による合宿があった。清原、桑田のほかに、中学生にして190cmの大男もいた。それぞれがブルペンで投球練習を披露。「そこでピッチャーはあっさり諦めがついた」と黒木は振り返る。
PL野球部員は入学とともに親元を離れて、寮(研志寮)に入る。複数人が相部屋で寝食を共にし、1年生が3年生の身の回りの世話をするのが決まりで、新入りに一切の自由はない。
「食事当番、道具当番、日課当番の3班に分かれるんです。朝起きてから寝るまで、やらなければいけない決まり事が100ぐらいありました。1年は、風呂でバスタオル、シャンプー、リンスは使ってはダメで、石鹸のみ。3年生の食事中は直立して待つ。練習より寮生活がピリピリしていました」
1年生同士でよくいさかいが起きたという。掃除当番をサボった、グラウンド整備の手を抜いた、洗濯物を勝手に動かした……。些細なトラブルは頻発したが、同じくPLの門をたたいた仲間だ。すぐ関係修復する。そして、また喧嘩。
「まるで刑務所のような場所」。多くのPLのOBが入部したばかりの過酷な時間をこう表現する。年下は年上に逆らえない。命令に従わされる。社会に出れば、理不尽なことに直面することも多い。黒木たちはそのような“社会の縮図”を10代半ばの高校時代で経験したわけだ。人間的に鍛えられたことは確かだろう、いい意味でも悪い意味でも。
4番清原の次の5番を打った「自分の野球人生で一番、輝いていた」
「PLでの3年間は、挫折をどう克服するか、どうやって常勝チームを作るかなど、社会に出てからの生き方の基礎を学んだ時間だったのかもしれません」
寮に入ってホームシックにかかった自分を支えていたのは、親の存在だ。それが逃げずに、野球を続けられた原動力だった。
「親のありがたみをひしと感じました。背番号をもらって喜ばせたい。野球をやりたい希望をかなえてくれた親への恩返しをしたいと思っていました」
大阪府予選を勝ち上がり、甲子園出場を決めた3年夏。黒木は主に4番清原の次の5番を打った。「自分の野球人生で一番、輝いていた年です」。
ところが……。栄光のKK世代の一員として名を馳せ、進学先の法政大学でもさらなる活躍を見せるだろう、と多くのファンも黒木自身も思っていた。だが、そうはならなかった。